十字路に立つ女




題名:十字路に立つ女
作者:逢坂剛
発行:講談社<推理特別書き下ろし> 1989年2月28日 初版
定価:\1,240(本体\1,204)



 短編集『幻のマドリード通信』でお馴染みの、私立探偵もどき・岡坂神策を主人公に据えた長編作品。私立探偵もどきというのは彼の構えているのが「岡坂探偵事務所」ではなく「現代調査研究所」であるからだ。何を研究しているのかよくわからないながらも、とにかく何でも屋みたいなもので、自分の全能力を駆使してとにかく職業化しようという試みであることは間違いないみたいだ。岡坂神策は私立探偵と呼ぶにはインテリであり、スペイン現代史のアマチュア研究家という一面も持ち、時にはその種の研究書に原稿を寄せたりもする。探偵の仕事を請負いながら、翻訳もやるし執筆もやるという奇妙な職業なのだ。税務署へは著述業で届けられいるらしい。趣味はフラメンコ・ギターとスペインに関する古書集め。彼の事務所はお茶の水にある。どうやら神保町に近いからみたいである。

 この主人公はぼくは実に好きなのだ。このくらい設定がしっかりしていると、本というのは本当に生き生きとしてくるし、ストーリーを彩るだけの遊びの部分も、環境であり舞台でもある街の描写部分も、全然退屈しないでいられる。いや、そればかりかずっと作品の奥行きを増してくれる。

 この物語で岡坂神策は前作の事務所から地上げを利用して引っ越しを果たしている。場所は同じお茶の水だし、地上げを逆利用して上手な引っ越しを果たすのに一役買ったのは同じフロアで事務所を構えているお馴染みの弁護士。新事務所もやはりこの二人向かい合っており、あいかわらず狐と狸の化かし合いといった形で事件に関ってゆく。岡坂は時には内緒で弁護士事務所の秘書にタイプや電話番を頼んでいたのだが(こういった状況も笑わせる)、今度の新事務所では留守番電話が大活躍している。岡坂はまた馴染みの古書店を行き来し、定期的にギター教室に通い、指の遅れを取り戻すためにアルペジオの練習もしたりする。これだけで探偵とそれを取り巻く街の環境が以下にちゃんと描かれているかはわかっていただけると思う。 そしてこの作品。ぼくは書店で背表紙を見たとき、まだ逢坂剛は「百舌シリーズ」くらいしか読んでなく、なんとなく「タイトルがダサイな」程度に思って買いもしなかった。だってワイド・サスペンスみたいな「なんとかの女」ってタイトルとても嫌いなのだ、ぼくは。ところがしばらく経ってぼくも逢坂剛のマニアになりかけてた時に、これが「岡坂神策シリーズ」であることを知り、遅まきながら慌てて書店に走った。好きなキャラクターであると、何となく作品は最初から光り輝いてみえたりするものだ。この本だってそういう意味でいきなり後光が射して見えたというわけ。

 これはスペインものではなく、お茶の水を中心に東京を舞台としたハードボイルド。本当の主人公はお茶の水から神保町にかけてのにぎやかで文化的で庶民的な界隈といえるかもしれない。ぼくが毎週のように通る界隈だ。この界隈に繰り広げられる多重奏交響楽がこの作品の内容である。リアルな地上げ屋と古書店の立ち退き問題。大資本商事会社と遺産相続。透析の苦痛や生体腎移植という医学的なテーマ。悪徳刑事と麻薬汚染問題。脱走した強姦殺人鬼がヒロイン花形理恵に迫るサスペンス。これだけの様々なサブストーリーが岡坂神策をめぐって怒涛のように進行する。逢坂作品はこのように都合よくなんでもかんでも重なって事件事件また事件でなくてはいけないと思うのはぼくだけであろうか。(『さまよえる脳髄』の殺人鬼ラッシュもすごかったが(^^;))

 長編とはいえ、どれがメインストーリーであるのかは計り難いし、十字路に立つ女がだれのことだったのか言い切るのも難しい。それだけ複数の事件が錯綜し、互いに絡み合い、どんでん返しが連続するのだ。あっという間に読み切る面白さであることはお約束します。でも最大の功労者はやはり、岡坂神策という相当風変わりなニュー・ハードボイルド・キャラクターであることは間違ないと思うのである。

 そうそう。『斜影はるかな国』の花形理恵と本書の花形理恵は、あまり同一人物である意味はないように、ぼくは思った。

(1991.07.24)