背いて故郷




題名:背いて故郷
作者:志水辰夫
発行:講談社文庫 1988.08 初刷
価格:\560

 冬の北海道を旅しながらかつて『飢えて狼』を読んだぼくは、やはり本書も旅のさなかで読みたかった。そのためにこれまで取っておいたのだが、当分旅にも出られそうになく、こらえきれずに読んでしまった。下馬評も聞いていたし、予想もしていたのだが、これまでのあらゆる賛辞を裏切ることのない秀逸な長篇作品であった。 日本推理作家協会賞授賞作品。 むむむ。志水辰夫は推理作家か?  苦しい賞ではないのか? 本書を読めば明らかになる。志水辰夫は日本の誇る本格冒険小説作家なのだ。

 昨年5月、ぼくはこの本の舞台の一部となる築別炭坑町跡地を訪れている。もう何度となく訪ねている羽幌の海岸線から、20キロ弱も内陸に入ったところ、茫漠たる原野を越えたところに打ち捨てられた町の屍は埋もれている。晴れて澄み切った蒼空の下、春の芽吹きも混じる樹林のそこかしこをまだ残雪が覆っていた。そこに多くの住居跡が蔦や雑草の侵食に任せて滅びていた。もう再び走るものとてない錆びた鉄路が、春の荒地にのたうって見えた。滅び去った町の残滓というものの凄じさを間近に見た気がした。本書では、ここが追跡と闘いの舞台になっている。四階建ての捨てられた廃屋でのシーンは、想像以上に非現実的な現実を既に目の当たりにしているだけに、こちらの感覚に深く響いてきた。

 志水作品の特徴として、極度な一人称視点というものがあげられる。ただの一人称ではなく「極度な」と付け加えたい。それほどまでに、主人公はいつも一個のれっきとした人間であり、あらゆることを選択しつつ決意し行動へと移ってゆく。あらゆる風景を主人公の心に滑り込ませてから放出している。自然は死んだ客観的な描写ではなく、生きた、心に響くものとして、主人公の吐息のように吐き出されてゆくのだ。それゆえ、すべてが現実以上にリアルで、自然は素材として欠かせない環境を象っている。

 そしてどちらかというと純文学がかった、微細で濃密な描写が素晴らしい。本書を読み終わる頃には、主人公がただ便宜的ではなく、非常によく語られ生かされた人間であることに気づかずにはいられない。主人公の幼年期のトラウマから、青年期への孤独、そして三十半ばにして追い詰められた、夜叉の如き憤怒。重なるサスペンスとアクションの合間を縫って、一体こんなことがいつ語られたのだろうか。読み終わる頃には、主人公の生い立ちとその深い精神的苦喪とを、知らず負わされている自分がいるのだ。貴重な素晴らしい筆力だと思う。

 あまり内容を紹介する気になれない。ストーリーの組立自体はそれほど複雑ではない。どんでん返しもあって、それはそれなりに面白いエスピオナージュなのだろうが、志水辰夫はあくまでストーリー立てで勝負する作家ではない。彼の持ち味は人間の心身に渡る極限状況を生成することと、素晴らしい自然描写、素晴らしい人間描写なのだ。『飢えて狼』『裂けて海峡』『尋ねて雪か』と並んで、本書は確実に読んだ者の心に愛着を残す逸品になると思う。

(1991.01.24)
最終更新:2007年05月28日 22:24