雲の影 王国記 III




作者:花村萬月
発行:文藝春秋 2003.03.15 初版
価格:\1,429

 ぼくは萬月中毒なのである。ある一定期間を萬月作品なしで過ごすことができない。どんなに出来が悪くてもいい。最低限のこの作家の文体の妙味だけはどのような低レベルな作品で味わうことができるし、その味わいは並みの作家には決してない職人的なそれでもあるからだ。頭で考えるのではなしに、ワープロを打つ指先が呼び起こす言霊のような調べ。天才と極道との間を揺れ動くような自己批評と照れ笑いとの狭間に生きる作家の饒舌。そうしたすべてが花村萬月という作家からしか味わえないものだからだ。汚れていて、なおかつピュアなもの。忘れ書けてしまうときに油断した日常に滑り込んでくる鋭い刃先のような言葉たち。それが、ぼくにとっての花村萬月。

もちろん本当に読みたいのは『風転』以来鳴りを潜めてしまった濃厚で分厚い果てのなき饒舌の大長編。活劇と観念との間に立ち上るセックスと暴力との二律背反。擬似家族を求める愛と孤独の切なき魂たち。だが、今のところ餓えた状態が続く。萬月は大長編から離れてひさしい。あるいは書き終わらなくなってさらなる大長編を育んでいるのかも。そうであるならぼくの問題は何もない。書いているのならそれが知りたい。読みたい。作中の独自な奴らに出くわしたい。

本書は芥川賞受賞作『ゲルマニウムの夜』に始まる一連の中短編シリーズ。ある意味ではサーガとも言える大構想長編の一章一章であるのかもしれない。そう思えば、ぼくは花村の大長編の一部にこの本でも触れているのだと思う。まったくもって短編を読んでいる気分ではなく、あくまで長編の一章をまた少し読み進んだという感覚。この本がもたらすものはそういうことだ。

いきなり『王国記 III』から読み出す人はいないだろうと思うけれども、果てしなく自叙伝に近い部分と、シンボリックなキャラクターのなかに見え隠れする、神、母、殺しといった純文学的テーマの跋扈する観念的世界。どちらもが、曖昧で、どこにも辿りつくことのない路上の物語であり、ある意味自由度がこれほど高い花村作品は他にあり得ない。萬月の気ままな文想につきあうしかない。果てしなく拒絶の文学。徹底した個人主義。そこに普遍が見当たらないわけではないけれども、高さ、深さという表現の限界を見切ろうとするその試みはやはり排他的である。

『雲の影』『PangPang』の中編ニ作を収録。前者は主人公・朧の観念の世界。より花村萬月の心象風景に近い自由文のような抽象。後者は、この大長編ではチョイ役であった風俗嬢(自称タイトル通りの「パンパン」)の一人称。赤羽とシスター・テレジアとのその後。軽薄でいかれた文体。このアンバランスなニ作の構成が、萬月の混沌であり、拒絶であるのだと思う。

 内容などはぼくはどうでもいいのだ。萬月文体をドラッグのように味わい、独自な酩酊に身を置くことさえできれば。その満足感だけは、この『王国記』シリーズはいつも限りなく保証してくれているのだ。
最終更新:2006年11月23日 18:44