ゲルマニウムの夜




作者:花村萬月
発行:文藝春秋 1998.9.20 初版
価格:\1,238

 れっきとした芥川賞受賞作。何せ発表誌が『文學界』。狙ったな、萬月さん。

 これまで萬月作品にジャンル分けなんて無意味だとは感じていながら、彼の作品は天性のハードボイルドだ、などとほざいていた。彼の生き様が、たとえようのないほど「悪」であり、尋常でない道程を経ているから、花村萬月という作家自体にハードボイルドという言葉を当てはめていた。

 かつてドラッグをやっていたのに、ある年齢で突然それをやめた。酒、煙草もやめると決断しては、それを実行している意思力。ブルース・ギターはそれで金を取れる腕を持ち、大型バイクで旅をする。そして何と言っても天才的に文章の優れた男。高く細い声、やわらかな言葉遣い、耐えない笑顔……本当に迫力のある人というのは、外観はソフトな人なんだと思わざるを得ない。ぼくと同世代でありながら、たまらなく遥かな距離に立っている作家、萬月。

 その客観的にどう見たってハードボイルドに思える人間でありながら、本人はハードボイルドと言われることで非常に当惑していた。自分が書くのはあくまでホーム・ドラマなのにと。そう言えば家族よりも家族らしい擬似家族が作中にいつもあった。思春期の多感を、父や母に見捨てられて送り、孤独と暴力の園に育った。

 そうした作家自身の極めて得意な生い立ちがあるのに、作家の書いてきたものの中には、当の修道院時代のものはまずなかった。紫苑や聖殺人者イグナシオのような極めてデフォルメの多い悪のヒーローを装飾する環境として修道院を用いたことはあるが、修道院生活そのものは、どこかいつも巧妙に核心から避けられていた印象がある。

 そこでこの連作中短編。『ゲルマニウムの夜』。これが核心だろう。『ゲルマニウムの夜』は単行本に収める段階で二つの短編に分けられ、一篇は『王国の犬』となった。中篇『舞踏会の夜』を合わせて三つの作品集となったが、雑誌『文學界』発表時は二編の中篇だった。どちらも『**の夜』。花村萬月の「夜」の部分。

 最近超大作を書きまくっている萬月氏を見ていると、とても書くことに充実しているように見える。本来人間が書かないであろう部分、タブー、恥ずかしくて書けないような心の奥底の動き……そうしたことを何もかも表現してやろう、いや、書かずにいられないという執筆衝動のようなものを、ぼくは感じる。

 この作品集は『文學界』にふさわしい純文学志向のものではあるが、あくまで花村文学の核であることを感じる。最も表現せずに済ませてきた彼の夜の部分を今彼が書くとしたら、今までどおりの形では書けないのではないか。ずっとそう思ってきた。思春期の時代に心や体を通りすぎる頼りなく確信のない過去という名の経験どもをどうやって表現できよう。今現在の自分とどうやって結びつけて考えることができるものか。この作品集のように、一言一言をとても慎重に書き紡ぐ。そうした丁寧さ、慎重さ、危うさが、必要になってくるのももっともである。結果、純文学。でも迫力のある純文学ではなかろうか。何だか重大の頃に頻りに読み漁っていた大江賢三郎あたりの暴力世界をぼくは思い出す。

 そしてここでも語られる花村による世界とは別の価値観。日常マスコミが語る多くのモラルにアンチテーゼとしてもたらせる性、暴力、罪、悪意。ひとたび破壊しなくては築くことのできない彼の世界価値。キリスト教の神と何らかのかたちで今も向かい合い、どこかで葛藤を感じざるを得ない花村萬月の内部の善悪の意識。真摯さ。多くの花村ワールドの原液とも言える密度の濃い作品集だと思う。この勢いで連作を続け、彼の王国(反世界)が築き上げられるとしたら、それは途轍もない偉業となりそうだ。その予想にぼくは震撼してしまう。

(1998/12/31)
最終更新:2006年11月23日 15:53