キス



題名:キス
原題:Kiss (1992)
著者:エド・マクベイン Ed McBain
訳者:井上一夫
発行:ハヤカワ・ミステリ 1994.4.30 初版
価格:\1,300(本体\1,165)

 かつて一気にシリーズを読んでいた日々と違い、前作のストーリーを忘れた頃にリアルタイムで読む邦訳作品は、どうもこの<87分署>シリーズのように連続的なストーリー展開を売りものにしている場合にすぐに勘が戻ってこなくて困る。この作品でもキャレラが父を殺害された事件についての裁判を傍聴するシーンがあるのだが、前作でそんな事件が扱われたことすら思い出せずに困ってしまったりする。こういう点は記憶力のある人の方がなんといっても得だ。あるいは年間一冊しか読まない人だとか、<87分署>以外に本は読まないのだとごいう人もさぞかしお得だろうと思う。

 そういう意味ではアイリーン・バークとクリングのその後など、ぼくが最も気になる点についてはこの作品では触れられず、どうも物足りない。ぼくだって覚えていることくらいちゃんとあるのだ。次作は、デフ・マン復活らしいので、刑事たちもまた忙しさを極めるだろうから、おそらくバーク&クリングのサブ・ストーリーにまで話は及ぶまい。

 さて本書だが、裁判描写など含めて中弛みがちで、もう少し薄くてもいいから密度の濃い初期作品をとリクエストしたくなってくる。裁判の全体的な流れについて、グリシャムの『評決のとき』を参考書に使ったのではないかと思うほど酷似している部分がある。陪審員の人種的な分類。裁判所前でデモを行う政治団体…。と、件の小説を彷彿とさせるシーンからはグリシャムの影響が色濃く感じられる。

 さて以上はサブ・ストーリーであり、それに関してはこうして冗長に進んでゆくのだが、メイン・ストーリーのほうは、ここ数作に見られない傑作だと思ってしまった。そこまでが冗漫に感じられていただけに終結部でこういう罠を用意してくれるとなると、マクベインもまだまだまんざらじゃないという気になる。結果的には凄みのある作品に終わっている。アメリカの現実を相変わらずすっぱりと切り取って、どの切り口をも象徴的に見せてくれる彼のこれまでのやり方が、今も変わらず有効極まりないからだろう。

(1994.07.24)
最終更新:2007年05月27日 15:59