毒薬



題名:毒薬
原題:Poison (1987)
著者:エド・マクベイン Ed McBain
訳者:井上一夫
発行:ハヤカワ・ミステリ 1988.08.31 初版
価格:\850

 1987年作品。シリーズ誕生と同年に生まれたぼくも、この作品が出る頃にはもう三十歳を過ぎてっしまているわけである。なのに刑事たちが歳を取らないのは何故? あれほど山のように事件を解決したキャレラやマイヤーがいまだに二級刑事なのは何故? こうした疑問はもちろんあるのだが、キャレラたちはとにもかくにも最初のころよりは十歳ばかりは歳を取ったらしく、しかも背景となる時代はもっとずっと急速に移り変わっているのである。初期作品で引き合いに出されていた『ディック・トレイシー』は今では『マイアミ・バイス』に変わってしまっている。あらゆる意味で、今そのものが背景として使われる<87分署>なのである。しかし本質的には犯罪の色調というものは様変わりしないようだ。

 マクベイン節の一つのトーンとして非常に冷酷非情な視点というものがある。本書ではハル・ウイリスが主役を勤め、ハルと愛し合うことになってしまう容疑者マリリン・ホリスがゲスト・ヒロインとなる。特に彼女の過去の描写が冷徹であり、息苦しい。凄まじい地獄の過去をさらっと葬ってしまうかのようなクールさ。マクベインの嗜虐趣味の一片を我々は殺人現場でも垣間見ることができるし、『カリプソ』などはその頂点ということもできるくらいだ。本書はまたも人間のしでかすことの底なしの惨さに触れている。

 今まであまり表立っては語られることのなかったハル・ウイリスという脇役向きの刑事。彼が、本書ではほんのエピソードでとはいえ、思いのほか語られる一節がある。三人を殺害した黒人の子供が警官時代のハルに銃を向けたときの話だ。若かったハルは彼を射殺するが、署の更衣室でわけもなく涙を流している自分に気づいた。ただそれだけのエピソード。しかしそれがハルの今も負っている傷の一つには違いないみたいである。どういう種類の傷を負ってきたかによって、人間はその後の半生を限定されてしまうことだってある。俗にいうトラウマというほど強く病的ではないにせよ、人間たちは実にさまざまな傷を負い、たまにはそれにすがってさえ生き抜いてゆかねばならないことがある。

 ハル・ウイリスが珍しく女を愛し、彼は珍しく自分の過去を語る。ぼくはシリーズがときに垣間見せる、さり気ないこういうシーン、こうした人間的な表情が好きだ。マクベイン節の真骨頂、とも言える。

 少し重たい一冊のせいか、事件そのものはミステリーの味を持ちながら、サブストーリーに見えてしまう。まさに毒薬入りサンドイッチのような一冊である。

(1990.11.28)