たとえば、愛



題名:たとえば、愛
原題:Like Love (1962)
著者:エド・マクベイン Ed McBain
訳者:井上一夫
発行:ハヤカワ文庫HM 1979.11.15 1刷

 くすぐったくなるような邦題がついているが、シリーズ中にはこんなタイトルだってたまにはありだろう。例えば『バレンチナ、わが愛』というのが『マフィアへの挑戦』シリーズにあったものだ。チャンドラーだってパーカーだって『愛』の文字くらい年中使っているではないか。しかし、さすがにディック・フランシスにはなかった。

 原題は《Like Love》。『愛の如く』と訳した方がストーリーにむしろ忠実だろう。そのストーリーだが、よくあるパターンの心中死体がどうも臭い、腑に落ちないというやつである。しかしマクベインは、そのよくあるパターンを推理小説には決して仕立て上げることなく、やはりいつものように刑事部屋を中心とした泥臭い人間ドラマのかたちで運んでゆく。

 泥臭い刑事部屋を表現するにしては、文章がとても軽く、通りすがりのさまざまな人々のセリフが例によって楽しめる。犯人のヤサへと踏み込む緊張に満ちたシーン、階段でローラー・スケートを修理しようとしている小さな女の子が「うちに来たの?」と刑事たちを見上げて訊ねるシーンでは思わず吹き出してしまう。街が生きているのだ。

 こまごまといろいろな人間の営みが描かれているところはいつもいつも素晴らしい。下手な作家はこんな風には決して描かないだろう、と思う。下手な作家は自分の作り上げた主人公たちを追うことだけで手いっぱいになってしまう。そういう風に意識していなくてもだ。

 マクベインの小説の楽しさは、視点がミクロ的になったりマクロ的になったり、心の中に入ったり、物質的になったり、ときには叙情的になり、神の眼になりもする。そういう表現のモザイク構造から成り立っているのがこのシリーズだ。そんなに長くない作品のひとつひとつでさえもが、確実に街の息吹きをぼくらに感じさせる。やはり巧い作家なのだ。

 そろそろシリーズも半分近く読んだろうか? とにかく先はまだまだ長い。娯しみはたんまり残されている。

(1990.06.15)