警官嫌い



題名:警官嫌い
原題:Cop Hater (1956)
著者:エド・マクベイン Ed McBain
訳者:井上一夫
発行:ハヤカワ文庫HM

 <87分署>シリーズ。なぜ、今までこうしたシリーズがあることに思い至らなかったのだろうか。ファンの方々のやり取りを拝見させていただきながら、いつか自分も読んでみようとは思っていたのだけど、ここまで縁がなかった。しかし一作目に手をつける。なるほど。まさに、これはぼくの趣味ではないか。

 まず一つ。マクベインの描写技術がたいへんに巧いのだ。

 それはどういったことかというと、ニ種(あるいは三種、あるいはそれ以上)の異なる文体を使い分けて、ある柔かなリズムを生じさせることができる。それがメリハリとなって、読者を引き寄せる流れのようなものを作っている。一方の文体では、これ以上はないと思われる客観的でアイロニックで冷徹な描写をし、主として事件の状況、うだるような街の熱さについて語るときに顔を出す。そしてもう一方の文体は、キャラクターの言葉に近い人間のにおいと温度を感じることのできる言葉たちである。

 これはアメリカ小説のひとつの特徴と言えるものなのかもしれないが、まずある意味で途方もなく散文的であるということ。抽象的な表現はあまり使わず、比喩にしても具体的でわかりやすいものを持ってくる。そして物質的なものへのこだわり(つまり客観性)があって、それはドアのノブや、45口径の銃口や、黒い喪服といった具体的な形となって出現する。ちなみにぼくは日本人でいながらアメリカ的表現をする作家といったらまっさきに村上春樹という作家を思い浮かべてしまうのだが、彼もこうした具体的な事物でメタファーを主体にする作家である。ハードボイルドの世界では、文句なくレトリックの魔術師・矢作俊彦ではないかと思う。

 さてこの『警官嫌い』は警察小説の走りだったという解説が付してあるのだが、まさにアメリカ捜査小説に流れるリズムがここにはあるとぼくも思う。英国スパイ小説に比べるとストーリーはいつでも少しシンプルに過ぎるのだが、アメリカ小説はむしろ語り口のリズムで物語を運び、それが結果的に魅力として感じられる傾向が強いと思う。スペンサーのシリーズだってそうだし、<87分署>なんてもろにそうだ。ストーリーと言えばまさに『太陽に吠えろ』や『特捜最前線』と変わりはしないのに、タッチがまるで違う。ああした脚本とは、きっと筆先のしなり具合が違うのだ。*注:『特捜最前線』では長坂秀佳の脚本がよかったのでこれは除外。

 そんなわけで、ハヤカワ・ポケミスのような地味な装丁で、ペーパー・バック出自の作品を読むという人は、日本においては国産ノヴェルズの増産エロティック・カバーに引かれて手を出す人よりも圧倒的に少ないと思うけれども、どうせベストセラー作家を誰か選ぼうと思うならば、出版社の言いなりというのではなく、マイペースな小説作りを基本にした海外作家を選んだほうが面白本に当たる確率はけっこう高いということ。ぼくはそういうことを是非言っておきたい。

 とにかくこれから<87分署>シリーズを読んでいきたいと思っている。生気溢れる登場人物たちの今後の活躍に大きな期待をかけているところなのである。

(1990.02.27)
最終更新:2007年05月27日 12:18