龍神町龍神一三番地



題名:龍神町龍神一三番地
著者:船戸与一
発行:徳間書店 1999.12.31 初版
価格:\1,800

 現代の日本を舞台にする船戸作品というのは極めて希で、これも大方不評であった『海燕ホテル・ブルー』以来。同じイメージで現代の日本を舞台にするというだけで船戸ファンの多くのクレームが聞こえてくることは予想されるところだけれど、ぼくは船戸は海外のものにしてもストーリー自体は主としてこんなところだと思っている。

 海外を舞台にした作品がほとんどだと言える船戸作品においては、民族主義的な船戸的歴史観を軸に読むというケースが多いとは思うのだけど、傑作と呼ばれる『猛き箱船』や『山猫の夏』は、実は歴史性や社会性のカラーが薄いタイプの娯楽色の強い作品である。

 独自の文化で糾われている現代日本のルーツを軸に据えてなどいない以上、この作品もまた船戸流歴史観から逃れて、純粋に「村文化」を多くの彼の僻地小説のように扱って娯楽の小説に徹しているように思える。

 『砂のクロニクル』や『流砂の塔』など確かに海外の僻地を取材して綴った大作の合間の作品と言えばそれまでなのだが、神話的世界としての船戸ワールドはそれなりに生きているし、主人公は多くの船戸作品に出てくるはみ出し者でありタフな一匹狼である。血と暴力に飢えた主人公を最後に若者に受け渡してゆき、過去の話は彼らの神話となる。これはいつもの船戸の構図である。

 だから表面的には警察捜査ミステリー。表面的には五島列島上にある架空の島を舞台にしたほらふきミステリー。だけどもともと船戸はこうしたおどろおどろしい素材を集積するのは得意な方なのであって、それが国内を舞台にしたからといって180度クレームを付けられるというのもなんだか理不尽な気がする。

 どこを切ってもやはり船戸。最初は日本を舞台に皆殺しや復讐の物語などどうやって書いてみせる? と違和感を否めずに読み始めた物語だが、終盤にはサービス過剰のバ
イオレンス。どろどろ情念のいつもの船戸節に興奮するありさま。理屈抜きで楽しめる本というのが、実は船戸の真骨頂なのだと、ぼくは『山猫の夏』以来思っていたりする。

 歴史観や民族主義を求める読者には大失望作だとは思うけれど、では歴史も糞もないような『山猫の夏』はなぜ傑作と言われるのだろうか? それは遠い地の出来事でぼくらにとっては神話的違和感のない世界だからなのだと思う。しかし日本は違う。現代は違う。銃器をどうやって主人公の手に握らせるか、それだけでも作家的手腕は問われるし、派手にやらかせば荒唐無稽のそしりを受けかねない。

 現代日本を舞台にするということはかくも船戸にとって危険な賭けであったのだと思える。だからこその挑戦意欲をこそ、ぼくは買っているのだけれど。

(1999.12.26)
最終更新:2007年05月27日 02:57