金門島流離譚



題名:金門島流離譚
作者:船戸与一
発行:毎日新聞社 アジア・ノワール 2004.03.20 初版
価格:\1,800

 船戸与一とノワールという言葉は、ぼくの中では正直なところ結びつかない。しかいノワールの定義について考えて見るときに、純粋な意味での殺人への意思や、破滅への方向性ということを考えると、政治的背景という情報小説的なメッセージ性を船戸から取り除けば、そこには飽くまで荒み、打ち棄てられた絶望しか、末期には残らない。そういう意味で、情報小説の性格の薄い、短編や主張性よりも娯楽性に偏った作品はノワール的な薄ら寒さを感じさせるものが元々強い作家なのだと思う。

 ただ船戸を読む読者はきっとノワールの読者というよりも、国際冒険小説や活劇の読者であるだろうから、二つの言葉は重なりにくいし、ぼくの中でもうまく振り分けることはできない。『海燕ホテル・ブルー』は船戸読者たちから駄作として扱き下ろされた作品であるけれど、この方向に踏み入れてくれた船戸には、ハメットの訳までやらかした作者のもうひとつの分野も感じさせられ、ぼくなりにどきりとする感触があったものだ。

 ここのところアジアに集中している感のある船戸だが、『夢は荒地を』のカンボジアは船戸らしい長大なスケールの冒険活劇であり、直系の作品であるのに比べ、『三都物語』、そして本書は、船戸にしては短めのストーリー、書き下ろしや連作短編の形を取った、ぶつ切りの印象を与える直近ルポルタージュといったものが続いている。

 あまり人が目を向けずマスメディアにも乗らない、しかも時間軸をずらした形での「今」を描こうという作家的使命感はそのままであっても、小説としてはひねりの少ないストレートな現地ルポルタージュ傾向が強まっているわけだ。メッセージ性というよりは、現代史を取材して歩いているかのような船戸の視点は、かつての「叛アメリカ」的メッセージ性を強く帯びているわけではない。どちらかといえば、アジア的諦観。無常の中をたゆたうが如き悪夢。そして何よりもノワール的要素を強めているような気がする。

 主人公が求めて破滅へ進んでいるように見えるもの。主人公の周りで狂ってゆく亡者たち。世界の構図に絡め取られてゆく弱者たち。金と性に溺れてゆく欲望の輩たち。そうした人間絵図の悲喜劇を、距離をおいた地点から淡々と描いている船戸は、より暗い空気へと踏み込んで破滅を恐れなくなっている。からっと乾いた空気から、少しウェットで未練がましいものへ、人物像は変化を遂げている。

 台湾か中国か。属性のはっきりしない金門島という小さな島を舞台に描かれた長編の表題作に加え、台湾の廃鉱で繰り広げられる死闘が印象的な中編『瑞芳霧雨情話』。どちらにも船戸の新たな匂いが確実に混じっている。あるいは、元々船戸のコアであった部分が全体から浮き出てきたというべきなのかもしれない。

(2004.05.03)
最終更新:2007年05月27日 02:34