東京奇譚集



題名:東京奇譚集
作者:村上春樹
発行:新潮社 2005.9.18 初版
価格:\1,400

 作者自らの不思議体験から、唐突に始まる。人生には不思議な偶然が時折り、訪れる。「偶然」とは、確率論という意味で言えば、非常に希少な発生比率なのに、それでもそれが起こってしまったときにその不思議さにぎょっとして口にする単語ではないだろうか。

 怪談・奇談の類ではなく、本書はそうした確率論的偶然を物語のコアに描いた、少々あり得べからざる「偶然」の物語。時には「偶然」は「寓話」の領域にまで間口を広げるのだが、これも作者がメタファーの駆使を糧とする作家・村上春樹なのだから、読者には予め許容範囲というところではないだろうか。

 例えば、二十日間の記憶のない失踪。例えば、ファム・ファタールとの出会いへの確証のない確信。例えば何と言うことのない「しるし」が日常に不意に知らせる虫の知らせ……ちょっとした日常の中に垣間見られる、人生のある局面。平坦と思われる日々に不意に訪れる極北の風景。普遍化された具象の徹底した小説化を狙い、この作者は短編を、未だ出血の止まっていない傷口のように展開してゆく。

 具象と抽象を往還する乗り物は、村上春樹という作家にとって、表現、文章、言葉なのである。危ういバランスを取りながら隘路を真実のコアな部分に導く綱渡りのようなデリケート極まりない作品を、わたせせいぞうの絵のような、スタイリッシュで平易で誰にでも読まれやすい文章で綴ってゆく。

 『回転木馬のデッドヒート』に近い、現実感覚とのダブりが楽しめる短編集。

(2005/09/19)
最終更新:2007年05月27日 02:03