シドニー! Sydney!



題名:Sydney!
作者:村上春樹
発行:文藝春秋 2001.1.20 初版
価格:\1,619

 特にオリンピックに関心を持たない作家がシドニー五輪を題材に料理した本である。村上春樹って、関心のないものごとには徹底して関心がない代わりに、なぜこんなものにこだわるのだろうという妙に瑣末なことにこだわるところのある、変な価値観を持っている作家だと思う。また、それを売り物にしていなかたったら、いくら文章が美味いからってこれほど世の中の多くの種類の人々に読まれるベストセラー作家にはなっていなかったと思う。つまり村上春樹的にひどく奇妙な価値観で語られるからこそ、彼の本はかなり変で、その分だけ面白いのだと思う。

 どんなエッセイストでもそれなりの価値観で書いているとは思うけれども、村上春樹っていう作家は、とりわけ妙に意固地で頑なで、非常にマイペースであるし、会社勤めを人生で一度もしたことがないだけに、自由な生き方を選択している人でもあるし、表現にも躊躇いがない。あるいはそのように見える人だ。だから鼻につくところが沢山あるにも関わらず、ずっとチェイスしてきてしまった作家である。

 そういう人が書いたオリンピック・エッセイ。この作家はニューヨークシティ・マラソンその他に沢山出場するくらいよく走る人なので、オリンピックの中でも長距離とトライアスロンには特別詳しいみたいだし、思い入れもありそうだ。それとアメリカかぶれのイメージ通り、野球はやっぱり好きみたいだ。柔道などは全然見なかったみたいだ。サッカーは見に出かけたけれど、やはり日頃特に見ることもない人のようだ。代わりに観光の方に気が行ってしまうときもあるようだ。やはり相当に偏ったバランス感覚でこのオリンピックの日々を過ごす。一日2、30枚の日記を確実に仕上げてゆく。

 そうした原稿だから、昨年のオリンピックでありながらも、早い段階で真新しい単行本になって出版された。高橋尚子の凄さなどは、やはりまともに描かれてはいるけれど、一方で、この日記をサンドイッチしているプロローグとエピローグ(のようなもの)では、敗者たちに焦点を合わせている。こうした構成バランスの妙が村上春樹らしい。

 題材はひどく違っていても、視点はやはり、サリン被害者たちにインタビューした『アンダーグラウンド』と変わらないものがあるような気がする。表面と裏面を知らずにはいられない作家的興味がこの本をただの五輪取材ものとは全然別なものにしている。五輪と全然関係なく、オーストラリアという個性的な大陸そのものへの村上春樹の興味は尽きないようで、むしろそのあたりの旅行記的価値の方を十分楽しめる一冊と言ってしまっていい本なのかもしれない。

 もちろんこの作家は文章の非常に優れたスペシャリストである。たまにこの人の文章に接すると、表現する日本語文章として非常な安心感を得ることができるし、それなりに心地よい時間を過ごせる。そのあたりがベストセラー作家としての最大のスキルであるのかもしれない。

(2001.04.28)
最終更新:2007年05月27日 01:57