レキシントンの幽霊



題名:レキシントンの幽霊
作者 村上春樹
発行:文藝春秋 1996.11.30 初版
価格:\1,200

 村上春樹も難解になったなあと思う。だいたいこの人は長編はけっこういろいろな種類、いろいろな毛色の作品があるので、人にどれを薦めようかと言うときに困ってしまうんだが、短編集ということになると、とっつきやすいものがいくつかあって、つい先日も『ノルウェイの森』に「暗いからいや!」と失望していた若い娘向きには『TVピープル』などをお薦めしてこちらはけっこう喜ばれ、村上春樹という作家のイメージ自体変えることができて、ぼくはそれなりに嬉しかった。

 あの究極の大ヒット『ノルウェイの森』によって同じような村上春樹像を描いている人は、きっと世の中にそんなに少なくはないんだろうと思う。そういう人がこの作品集を読んでも、そう多くは村上春樹像を変えることはないだろうな。こう言えば、この一冊の感じがつかめるのではないだろうか?

 あの青春三部作の頃とはだいぶ違ってきたのは、同じ死とか虚無とかの扱い方でも、ずいぶん違ってきたこと。かつては想像の場所で羽ばたいていた春樹ワールドが、段々リアルな壁を纏い始めた、って印象がぼくにはある。

 もともと若い頃から極めつけの文章力を誇っていた村上春樹という作家が、少し作品を現実や歴史の方に歩み寄らせているのが、最近の傾向のようなのだ。若い頃の遊びの精神に今、年齢を重ねたことでかつえているような……若い頃の想像の世界というのは、こうした幻想作家(などとこの際言わせていただく)にとってすごいパワーの源だったのだと思う。そしてそうした若い頃のパワーはどう転んだって二度と手に入らないものだし、そうした過去、過ぎ去り行くすべてのもの、近づきつつある死、その向こうにありそうな恐怖に満ちた虚無という意識。そうしたものどもが、このところの村上春樹の作品にはかなりどっしりと根を下ろしているようで、難解な物語の向こうに次第にはっきりとしてきた作家の最近のテーマこそが、村上春樹の成熟の結果なのかもしれない、などとぼくは思う。

 最近の彼のエッセイも今年は読んだけれども、かつてのような奔放な文章は陰をひそめてきている気がしてならない。作家と同じように、徐々に振り返る距離が長くなってきたぼくにとって、とても残念な現実である。

(1996.12.19)
最終更新:2007年05月27日 01:40