スプートニクの恋人



題名:スプートニクの恋人
作者:村上春樹
発行:講談社 1999.4.20 初版
価格:\1,600

 出版された途端に本書はベストセラー・トップに躍り出てしまっている(トーハン調べ)。何がこれほど大衆にアピールしてしまうのか。一応純文学作家の名で通っている芥川賞受賞作家の村上春樹は、一方でいま最も売れる大衆小説作家なのである。こうなると彼の作品も純文学の皮を被ったエンターテインメントと呼ぶ他ないような気もするけど。

 ぼくは今は純文学は基本的に読まないので、ぼくが読む純文学小説(と文壇では分けているジャンル)は、ぼくの中では立派なエンターテインメントであり、それはときに冒険小説であり、ハードボイルドでさえあったりする。

 ちなみにこの本は奇妙な恋愛小説と(表層的には)言うべきものなのかもしれないけれど、やはり『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の彼方=現在にまで繋がる延長上の作品とした方が、ぼくにはしっくり来る。

 レトリックというか、文体、文章、そうしたものに魅力を感じてしまう傾向がぼくには確かにあって、それが村上春樹や矢作俊彦の文章への引力となっているように思う。とりわけ村上春樹に関しては、思い切り特徴のない作家が思い切り特徴のない主人公たちを思い切り特徴づけてしまうテクニックの持ち手、とのイメージが強い。これはそれなりに想像を絶する技術なのではないだろうか。

 いつも特徴のない人たちが美味しそうな食べ物や飲み物を実に美味しそうに心地よさそうに味わい、そして普通のありがちな会話を心地よい環境音楽のように、純化してあっさりと居心地のよくなった小説世界で交わしている。やがてそうした日常がどこかで奇妙な傾斜の仕方をし始めてゆき、ある種の村上春樹的特徴が少しだけ闇を伴って表出し始めてゆくのだが、いつもそれは最後には普遍的なものに拡大された揚げ句、とても大衆受けする何ものかに変質してゆく(一言で言えばこれが普遍化ということなのだろうけれども)。そして多くの読者の心に心地良さと解き明かされぬ謎という不条理とを二つ残して終了する。

 この物語、井戸の底で世界から隔絶された話をエピソードとして描いた『ねじまき鳥クロニクル』に似た観覧車の描写がある。ある女性の奇妙な体験。片づけられることのない謎。

 また『ねじまき鳥クロニクル』と同じく、劇中劇、劇中劇中劇という複層構造を持っている。エピソードの方が重要な低層構造になっているとでも言おうか。心地よい日常に対し、語られる怖いエピソードの隔絶のアンバランス。

 『アンダーグラウンド』という地下鉄サリン事件を題材にしたノンフィクションの仕事に集中してきた作家が久々に書いた『ねじまき鳥……』以来のフィクション。なんだか呆気ないほど昔のハルキ・ワールドに戻っているのが不思議である。

 それに、これほど奇妙な話をこの作家はなぜこうもわかりやすく平易な文章と平易な表現で書き連ねてゆくのだろうか。あるいは、それ以上に、この本のどこが大衆に財布の紐を緩めさせるのだろうか? 

 もしかしたら、人は意外と、解決のない謎に飢えているのかもしれない。一方で売れているであろうはずの推理トリック小説とは真反対の方向を向いた作品もまた売れる、ということなのだ、現象学的に見れば……。人の心の多重性。こんなことと小説の多重構造は案外作者の中で強固に結びついて整理されていることであるのかもしれない。

 自分の日常を少し変わったスプーンで攪拌してみたい人にオススメしたい。ただし「何じゃ、これは、なんだかちっともわからないじゃないか」などと読後ぼくにクレームをつけないでください。

(1999.05.09)
最終更新:2007年05月27日 01:25