12番目のカード




題名:12番目のカード
原題:The Twelfth Card (2005)
作者:ジェフリー・ディーヴァー Jeffery Deaver
訳者:池田真紀子
発行:文藝春秋 2006.09.30 初版
価格:\2,095

 実のところ、ディーヴァーには食傷気味なのである。だから新作が出てもおいそれと手を出さない。買っておくには買っておくのだが、「積ん読」状態が長く、後で時間のあるときに読もう、と後回しにしてしまう。

 昔は、ディーヴァーはジェットコースター・ノヴェルだと感じていた。でも、最近はそうは感じなくなった。確かにけれん味たっぷりの描写とどんでん返しで、ツイストはされている。面白いはずなのかもしれない。スリリングなのかもしれない。展開だって十分にスピーディなのだと思う。でもそれらの価値が少しずつ、私の中から剥がれ落ちてゆくのがわかる。私の、ひょっとしたら年齢のせいなのか。ディーヴァーが技術を駆使すればするほど、その味わうべき技術が胡散臭く思える。心底、物語に圧倒されることもなく、ヒーローやヒロインに共鳴することもなく、淡々と事件の進行を読み進めているだけというこの義務感は何なのだろう。

 本書においても、その感覚はあまり変わらないものだった。何故か気が散る。集中できない。物語があちこちに飛んだり、登場人物がころころと入れ替わったり、犯人らしき人物が複数で、初期ライム・シリーズに見られたような一対一の対決というシンプルな構図に欠けるあたりも、何だか面倒なばかりで、惹かれるところがない。

 シリーズの持つデメリットというものを感じる。レギュラーキャストがいて、彼らは誰も死なず、守るべき命は結局のところ守ることができるだろうし、犯人は必ず解決するだろう……そんな想像力の方が先を翔いて行ってしまい、本がのんびりと後を着いてゆくという印象の読書時間。ことにディーヴァーの中でも、このライム・シリーズが面倒になってきている自分を感じる。読みどころも決して少なくない作品だというのに。

読みどころ、その一。ハーレムにテーマを置いた作品であるところ。かつてヘルズ・キッチンという土地にこだわって書いたジョン・ペラム・シリーズの『ヘルズ・キッチン』のように、本書ではディーヴァーがまたもニューヨークのエッセンスみたいな場所にこだわってみせる。今ではハーレムの一角に高級住宅街が進出しているという部分も驚きだが、140年前、南北戦争直後の奴隷解放に纏わる土地でもあったというところが、こちらが日本人でNYに暗いせいか、意外性に富んでいる、という印象。

 読みどころ、その2。殺し屋の一人が、元、死刑囚官房の死刑執行人であったというところが風変わりだ。人を殺す仕事で心が壊れてゆく様子が、鬼気迫る。特に彼が独白するシーン、死刑囚にも判事にもスポットライトは当たるのに、俺たち執行人に何が起こっているのかは誰も注目しない、というようなことを言う。無感覚という感覚を持ち歩き、今では人を殺すことに何も感じなくなっている奇怪なフリーク。

 読みどころ、その3。実は、リンカーン・ライムも心を壊された人間であることが、行間に示唆されてゆく。本書では恋人であるはずのアメリア・サックスが、なぜかただの捜査チームの一スタッフみたいに扱われているだけなので、余計にライムが事件だけに興味を持つオタッキーな人物として浮き彫りにされているかに感じる。中でも、ライムは事件にこそ興味を惹かれるものの、事件を起こした犯罪者などに全然興味がない、という。そうしてみると、人間や心というものへの興味を失い、物質的なものにばかり心を傾けるライムこそ、相当に心が壊れた人間であるように見える。

 だから最終章で、アメリアとようやく二人だけの時間を持ち、心が自分の体の治療の方へ向かいかけるとき、生きようと積極的な姿勢をアメリアに見せるときに、この事件を通してライムが少しだけ変わったことが読者に告げられるのである。感覚を失った元死刑執行人や、ほぼ全編を通して命をつけ狙われるハーレム育ちの少女の強く懸命に生きようという姿、彼女を支援しようと努力しようと闘うスタッフたち、そして彼女を刑務所からずっと思っていた父親の悔恨、といったものが、この事件を通して初めて意味のあるものに思えてくるのである。

 この最終章がなければ、私自身、無感覚という感覚のままに、ディーヴァーの小説作りのうまみなど少しもわからずに、ページを閉じてしまっていただろうと、後にして思うのである。

(2007/05/13)
最終更新:2007年05月13日 23:52