汚れた街のシンデレラ



題名:汚れた街のシンデレラ
原題:Manhattan Is My Beat (1989)
作者:Jeffery Wilds Deaver
訳者:飛田野裕子
発行:ハヤカワ文庫HM 1994.8.31 初版
価格:¥620

 いわゆるサイコ・シリーズともジョン・ぺラムのハードボイルド路線のシリーズとも若干趣きを異にしたニューヨークのパンク娘ルーンを主役にしたシリーズ第1作(残り2作は未訳)。

 パンク娘といえば、ジェン・バンブリー『ガール・クレイジー』という、『このミス』でぼく以外は誰も推さなかったというポップ・ハードボイルドが思い起こされ、本書もどことなく似た雰囲気でスタートする。どちらもただの店員。あちらは本屋だったが、こちらはレンタルビデオ・ショップ。こんなポップ・ミステリをディーヴァーが書いていたとは。

 素人店員が事件に関わるとなると、どうしても捜査側スタッフというわけではないから、事件の核心部分には加われず、外周に触れながらの探索という形になる。知識も経験も権限もないというハンディを追っての追跡もさることながら、犯人を(宝を?)追いかけるヒロインの頭の中は実はまるで童話の世界。ビデオの中の映画、あるいは絵本といった空想が常に彼女の体内を駆け巡る。リアルな現実で生きられないのではないかと心配になるくらい夢多く心優しきヒロインなのだ。事件の核心に迫ることなどおよそ難しそうな設定なのだ。

 事件の真相と彼女の宝探しという二つのミステリを二重奏的に奏でながら、捜査陣と犯罪者との間の隘路を妨害し混乱させつつ、探るルーンとそのいかれた生活と初々しいほどの恋が眩しい。そしていざとなれば空想の世界からどぎついニューヨーク下町のm現実に臨機応変に対応できるタフネスぶりまで。車のスクラップ置き場でのデートシーンなどがこれ以上ないほどに素敵に思えるのは何故だろう? やはりここまで書けるとなると、ディーヴァーのその後を予感させる何かがあるとしか他に言いようがない。

 亡くなった老人とヒロインとの間に隔たる年齢の距離、即ち生きる時代の距離を、一本のビデオ映画が結んでゆく。何というコントラストの秀逸。後にジョン・ぺラムに引き継がれてゆく映画関連のエピソードもてんこ盛りだし、ヒロインがいろいろな映画にこだわる姿がどことなく共感を呼ぶ。ディーヴァーという人は初期時代からこんなにも映画にこだわっていた作家なのだとつくづく思う。「ムービーではなくシネマと呼んで」というヒロインの台詞はジョン・ぺラムの口からも同様に出ていたっけ。

 巻末の解説によれば、本書もMWA最優秀ペーパーバック賞候補作だったらしい。結果的には『死を呼ぶロケ地』と2作品で同賞を逃していることになる。確かに粗い部分も目立つかもしれない。でも今のディーヴァーをディーヴァーたらしめる要素である、映画的視点、映像的ロケーション(生き生きとした街の描写)などはこの作品の時代から既に輝きを放っている。そして心の機微を捉えてしまう作品主人公のハートの魅力。少しばかり感情をくすぐられ涙を誘発させられそうになるラスト・シーン。こうした情緒的な良さは、今の作品群よりもむしろ本作やぺラム・シリーズなど初期作品群のほうが強いかもしれない。プロットを優先させると、こうしたピュアな良さというものは確かに犠牲になりがちなものだ。

 だからこそ今ディーヴァーの原点回帰。本シリーズを初めとした未訳作品の邦訳は待たれる。是非、過去の作品群にも改めて陽が当たる日の来ることを!

(2003.01.04)
最終更新:2007年05月13日 13:13