美しき罠




原題:Rafferty (1953)
作者:ビル・S・バリンジャー Bill S. Ballinger
訳者:尾之上浩司
発行:ハヤカワ・ミステリ 2006.09.20 初版
価格:\1,100

 不思議な作家である。『歯と爪』『消された時間』『赤毛の男の妻』といった作品が、1959年から'61年にかけて翻訳出版され、それなりにヒットしたであろう形跡があるのに、その後、この人の作品は日本においてはばったり途絶えてしまう。

 この作家が日本で復活したのは、何と40年後の2002年である。小学館文庫で『煙の中の肖像』、創元推理文庫で『煙で描いた肖像画』が、なぜかほぼ同時期に翻訳された。40年以上の時を経て同時出版というのは、とても奇妙だ。天上に風変わりなプロデューサーでもいるのかもしれない。

 実はこの作品は、1963年の『ヒッチコックマガジン』で『煙で描いたポートレイト』というタイトルで、抄訳が発表されている。つまり『煙……』は三たび翻訳された、いわく付きの作品だったのだ。

 それ以上に2002年、二つの版元からバリンジャー作品としてはほぼ40年ぶりに再登場したという奇跡は、やはりとても興味深い。当時、ノワールの再燃ブームが俄かに起こったというのも事実。特にエルロイが壊れた文体火をつけ、タランティーノがノワール映画を復活させ、やがて暗黒小説が見直され、ジム・トンプスンはとりわけ見直されるようになり、新鋭ノワール作家ともども、狭い邦訳界で一気に凌ぎを削り始めたという観があった。

 バリンジャーは、トンプスンのように破壊的なノワールの書き手ではないものの、独特のおとなしめの語り口で読者を地獄への道行きに案内してくれる技巧派作家だ。特に問題の『煙……』は奇妙な味わいだった。古いモノクロ映画を見ているようなレトロなテンポの中、謎の女の写真一枚に魅かれて、主人公は彼女の足跡を追跡する。しかし、いつももう一歩のところで女は偶然に居を移している。頻繁に変わる彼女の住所や仕事場で主人公は聞き込みをするのだが、その都度全く異質な女性像が浮き彫りにされてゆく。いわゆる小説構造の妙が忘れられない傑作だった。

 本書は、原書タイトルにもなっているラファティという名の刑事にたまたま世話になったことのある作家が、第二次大戦から帰還して再訪しようとするところから始まる。しかしラファティの姿はどこにもない。どうやら、ラファティに想像を絶する何かが生じたらしい。それは作家の知っていた良き警察官ではないらしい。一人の女の虜になったことで、破滅への道を辿り始めた人間の極度なまでの変容がそこにはあったのだ。

 後半部は、作家の取材から一気にラファティ・サイドに視点を移動する。そこからの転落のスピードの速さを物語るかのように、ラファティとその悲劇を綴り始める。

 一人のかつて優秀だった警察官が堕ちて行く時間を、バリンジャーのペンは、非常に巧緻に描いてゆく。読者はその語り口に導かれ魅せられる。奇をてらった物語というわけではない。むしろ自然さを感じさせるほどに、男と女のお互いの愛がとてもゆっくりと少しずつ、ぶれてゆく。その心理の破綻が怖くもあり、哀しくもある。

 ヒロインのローズは、この小説においては確かに宿命の女(ファム・ファタール)であるのだが、彼女の人生からは、特にこれといった悪意も罪も感じられない。普通に欲望があり、普通に人生の苦しみに対する忍耐があり、叫びがある。彼女を愛するというそのことだけで、ブレーキもかけずに急坂を転がり落ちていってしまうラファティの精神の崩壊は、だからこそ怖ろしい。

 ミステリというよりもドラマチックな破滅劇といった味わいである。地味な作品だが、私の誕生以前の昔から蘇ってきた作品とは、とても思えない。むしろ、どこか新しさを感じさせてくれるほどあ。既に翻訳されている他の作品も全部読んでみたいと思わせられる、バリンジャーは、実に凄腕の作家だ。

(2006/11/19)