ゲッタウェイ



題名:ゲッタウェイ
原題:The Getawey (1959)
作者:Jim Thompson
訳者:高見 浩
発行:角川文庫 2073.03.01 初版 1995.3.15 5刷
価格:\500

 好きなサム・ペキンパの代表作でもある『ゲッタウェイ』に関しては、ぼくは劇場でも何度も見て、LDもDVDももちろん所有し、未だに何度も見ている。そういう映画の原作本を、好きなジム・トンプスンだからと言って今さら読んでみるというのは、気分の作り方の上で大変に難しい作業である。映画にこれだけ最初から肩入れするというハンディを負って読まれる原作本というのは、ぼくの場合にはあまり例がなかったからだ。

 しかしネットの古書予約をしていたおかげで不意に入手配送のメールが飛び込み、この絶版本が手に入ることになったことがわかったときいはやはり嬉しかった。届いたその日に手をつけた。ジム・トンプスンは今やぼくにはそれだけの価値がある作家であるからだ。対処すべき気分の持ってゆき方についてはともかく。

 ドクとキャロルのそれぞれの単独の描写がある。夫婦をつけ狙うルディの側の描写がある。常に一人の主人公とつかず離れずの描写が多いトンプンスンとして珍しいことである。彼らの対決部分までは、映画にかなり近い部分があったと思う。マックィーンとマッグローを想定して物語を追跡してきた。鉄道駅でキャロルが現ナマを奪われるシーンや、その前後の懐疑に満ちた夫婦の科白など、映画とはほぼ並行に歩んでいるように見えた。だからこそこの普通さがジム・トンプスンなのか、とある意味信じ難いような、歯に何かがつかえたような感覚がこちら側にある。トンプスンに抱いている先入観が破壊されているような感覚が。

 ところが、ルディとの対決以降、トンプスンは次第に姿を現わし始め、映画とはどんどん違ったものに変貌してゆく。映画ではもうここまでで終りだろうというコーナーに差しかかっても小説の方は疾走をやめずに、これまでのストーリーからいきなりの断層を見せて突然に変形してゆく。トンプスンを読んでゆくと、この人の作品は何よりラストが狂気に満ちているわけだけれど、この作品も全然その例外ではなかった。正直言って、何だこれは? というようなプロット上の裂断面がくっきりと露わであり、それ以前とそれ以降はどこに繋がりを求めていいのかわからなくなる。

 それまでが、比較的淡々と描かれてきた逃亡と殺人の記録であるとすると、そのツケを全部支払わねばならない時期が来てしまったというような終章であり、皮肉な黒い哄笑がバックグラウンドミュージックというわけだ。トンプスンの好きな方はここで溜飲を下げ、そうでない方はここで放り出されたような気持ちになることだろう。

 ちなみにこの作品はペキンパによって映画化された折りに一度出版され、絶版となり、ドナルドソンによってリメイクされたときに若干改訂されて再版されたのだが、またも絶版となった。まるで絶版となるために生まれてきた本みたいに。

 ちなみにどちらの映画もウォルター・ヒル脚本だと言う。ぼくは後者の作品は見ていないのだが、ヒルの使用前/使用後みたいなものじゃないかと勝手に見当をつけている。前者はペキンパによって大幅に書き換えられたという話もあって気の毒ではあるのだが。機会があったら是非一度は観たいと思っている。キム・ベイシンガーだけでも。

(2003.02.05)
最終更新:2007年04月22日 22:01