失われた男



題名:失われた男
原題:The Norhing man (1954)
作者:ジム・トンプスン Jim Tompson
訳者:三川基好
発行:扶桑社ミステリ 2006.06.30 初版
価格:\800

 トンプスン作品が、ノワールの復権とともに脚光を浴びるようになってから、既に数年が経過した。これまでに邦訳はどんどん進んでいるが、既に絶版になっていた作品の改訳出版なども含めると、かなりランダムに入手される状況でもあり、熱心な読者たちは、1940~60年代の20年間分くらいのトンプスン作品をあちこち、喰い散らかすように読んでいることになる。

 どんな作家でもそうだが、デビュー間もない若書きの頃には荒削りながらも個性を光らせる。やがて熟練の時代を迎えると、作家によっては作風を大きく変えたり、急に豹変し売れる作品をテクニックで書くようなり、新たな読者をたんまり獲得する一方で、元の読者たちからそっぽを向かれたりもする。

 しかしそれは売れた作家の場合だ。ペイパーバック・ライターとして、売れないポケット本を何冊も書かざる得ない職業作家トンプスンのような人は別である。そこそこの商品価値をキープできるレベルで、作品を量産する。作品はそこそこ売れてくれねばならないが、大ヒットには遠く及ばない時代が延々と続いてゆく。作家たちは、日銭を稼ぐために書き続ける。何とか糊口を凌いでゆかねばならない。

 ポケミスの常連作家たちには、もともとそういう人も多く、マクベインだって、ヒギンズだって例外ではなかった。沢山の作品を、いくつもの版元から出して、安い原稿料を少しでも多く稼ぐためにペンネームを変えたりもする。

 そのトンプスンが売れないながらも、何とか個性を光らせたのが、1950年代前半だったのだろう。現在の翻訳作品も実はそこに集中している。トンプスンは、後にノワールの本家であるフランスで高く評価を受けた作家であり、フランスを起点にして世界にその名を広められた。トンプスンの名が知られつくしたのは、作家の死後のことである。

 この50年代前半のトンプスンが、どのような境地で作品を量産していたのかを想像しようとすると、金のために書く、というモチーフがまず最初にあったろう事情が伺われる。その上で、売れるための作品を書こうという意思もそこにはあったに違いない。

 トンプスンには、そういう意思とは完全に別方向を向いた作品が少なくない。作品の商品的価値ということには無関心だとしか言いようのない、奇怪な逸脱を見せる作品が少なくはないのである。

 1953年から54年にかけて、その逸脱の顕著な二作品『サヴェッジ・ナイト』『死ぬほどいい女』が出版されている。本書『失われた男』は、その直後の作品。異常なほど黒い逸脱を見せる二作品に比べ、本書は類型的でこそあるけれど、その実とても正常なものに見える。

 しかしながら、トンプスンらしさは失われてはいない。例えばテレタイプから打ち出される気象予報の太字文章は、本筋を冷笑するような客観に満ちていて、とても不気味である。

 宿命の女たちとの関わりについても、いつもながらである。いつもどこかで女たちとの関係がうまく保てないトンプスン風主人公だが、この作品では、珍しくき女たちとの断裂の理由を有している。笑い飛ばしたくなるような、ふざけた理由を。理由になっていない理由を。

 その喪失した肉体のかけらを理由に、断裂や暴力の解釈を自らに施す不純な魂の方向性については、友人の警部によってちゃんと断罪されることになっている。

 思いもかけぬ方向に進むストーリー。どんでん返しなのか、全くの嘘っぱちなのか、少しもわからない。真実ともいえぬ真実を抱えたまま、主人公も読者も、テレタイプの音だけが響く静寂のなかへと放り出されてしまう。極めて虚無的な気象予報を告げてゆく黒文字の羅列の中に。

 黒い笑いと自棄的な心象。男や女という具象にまみれた事件の連続によって、虚無や、人間存在の不確かさを抉り出してゆくトンプスン流は、この作品でもしっかりと生きている。

 逸脱の見られないミステリのなかでも、トンプスン流を貫いた作品として、見事な代表作とも呼び得るのが、本邦初翻訳のこの作品だ。はらわたを抉る鋭さや、叙述の上でのけれんには欠けるけれども、こうした深みあるノワールの書き手としてのトンプスンを味わうには、それなりに最適の一冊であると言えるかもしれない。

(2006/11/12)
最終更新:2007年04月22日 21:54