深夜のベルボーイ



題名:深夜のベルボーイ
原題:A Swell-Looking Babe (1954)
作者:ジム・トンプスン Jim Thompson
訳者:三川基好
発行:扶桑社 2003.03.30 初版
価格:\1500

 巻末作品リストによると『死ぬほどいい女』の直前に出版されたのがこの作品。1954年にはなんと五作もの作品が発行されている。ちなみに前年の1953年にも五作品! その前後年となると、せいぜい年間一作品が出るか出ないかというくらいのペースなのにである。二年間で十作ものトンプスン作品が出版されたという異常な背景を、いまぼくらはどう読み取るべきだろうか。

1956年には『現金に体を張れ』1957年には『突撃』とキューブリック作品の脚本をトンプスンは書いている。この作品が出た当初というのはトンプスン作品がいわば「まあまあ売れた」時代だったのではないかと思う。

にも関わらずこの時代の邦訳は少ない。この二年間、十作中『残酷な夜』『死ぬほどいい女』の二作品のみが日本での邦訳実績だったわけである。さほど取り上げる要素のない駄作と見なされてきたのか、たまたま不遇であったに過ぎないのか、これもよくわからない。その時代の邦訳がともかくまた一作日本で陽の目を見たわけだ。今後もトンプスン人気が支えられ続け、より多くの作品に陽が当たることを期待したい。

さてこの作品。『死ぬほどいい女』や『残酷な夜』に比べると、狂気の度合は低い部類だろう。もちろんトンプスンの作品なのだから狂気は確実に存在している。だれもが大なり小なり狂ってゆくように見える。ただしそれは上記ニ作のように行き着くところまで行ってしまった極北の狂気とも思えない。

トンプスン作品はどちらかと言えば、一人称文体の作品のほうがより狂ってゆく傾向が強いようである。本作は限りなく一人称に近い三人称でありながら、やはりトンプスンの一人称作品が持つ、偽証・嘘を忍ばせる表現には迫っていない。本書にはその意味でのもどかしさのようなものを感じる。しかしそれはこの作品がかもし出す別の種類の味つけなのだと思ってくれていいと思う。

本書においては、独特の三人称文体が、一人称とは別の意味での幻覚を見せてくれているのだ。限りなく同情を寄せたくなるような薄幸な主人公のなかで次第に姿を現わしてゆく偽善とその正体がそれだ。父の苦しみへの原罪意識、育ての母への抑圧された性欲、虚言、躁鬱。きわめてきちんとした人間であるかのように言い聞かせ、真実を被い隠し続けないと一瞬で滑り落ちてしまいそうな危うい日常。トンプスンの心理表現の御家芸が連続する。

主人公の瞳がかくも曇っているゆえに、本当の善玉が誰であり悪玉が誰であるのかがわかりにくい。力関係も理解しがたい。ひと目で悪女と見えるヒロインも、本当の姿が曇らされていて、終章までおよそはっきりしてこない。企まれた犯罪の本当の計画も、真夜中のホテルのフロントの静けさも、それもこれもが霧がかかったように曖昧で幻想的に見える。

そうしたいくつもの仕掛けが縦横に張られたトンプスン世界。歯切れの悪い迷宮の果てに、最終行が例によって不気味に印象的だ。いつものトンプスン的断裂は本書ではさほど大きくはなく、むしろ少しずつストーリーをねじ曲げる形で現われる。このねじれをじわじわと咀嚼しつつ味わうビター・テイスト。これはトンプスン以外には決してないものだろう。

ちなみにこの本には、1985年に寄せられたスティーヴン・キングの序文が掲載されている。ここでのトンプスンへの賛辞は秀逸だ。抑圧されたトンプスン・ファンであっても、この文章からは、比類なき痛快さを味わうことができるはずである。

(2003.04.06)
最終更新:2007年04月22日 21:51