身元不明者89号



題名:身元不明者89号
原題:Unknown Man No.89 (1977)
作者:エルモア・レナード Elmore Leonard
訳者:田口俊樹
発行:創元推理文庫 2007.3.23 初版
価格:\1,000

 世の中には絶対に思いつきそうにない職業があるということは何となくわかるけれど、本書の主人公ジャック・ライアン(どこかで聞いたことがあるような名前だ)の職業は令状送達人である。令状とは裁判所へのご招待状のことで、証言者として呼ばれるケースが多いようだが、その辺りを作者は詳しく書いているわけではない。本来は立派な職業であるのかもしれないが、作者が仕立て上げたライアンという主人公はアル中で身を持ち崩しろくでもない半生を送ってきた社会的にどうしようもない奴で、この仕事に就くまでは様々な仕事をいろいろな理由をつけて辞めてゆくという根性無しそのものだった。

 作中でも重要な役を果たすのが学生時代の同期で今はデトロイト警察に勤める刑事ディック・スピードだが、彼こそが、我らがライアンをまっとうな職業に就かせた硬骨漢だ。さらに今回ライアンを引きずり込む送達人仲間のジェイ・ウォルドは差し押さえ人という嫌な職業に就いており、ライアンに人探しを依頼してくる怪しげなビジネス・コンサルタントはさらに如何わしい金銭の儲け方に通暁していたりする。

 レナードの小説は、それぞれに職業を持った人間たちが、反社会的人物たちの世界に片足を突っ込みながら、互いに法的な、あるいは無法な経済活動の葛藤の坩堝に叩き込まれ、いわゆるオタカラの金銭を誰がかっさらってゆくかという命賭けの争奪戦である。だから職業はそれなりに重要だし、動機も方向性もやり口もしっかりとそれぞれの登場人物たちには明確に与えられていることが多い。さらには育ち、環境、人種などにより、自分でその生き方を変えることができない運命的な悪党、殺し屋、たれ込み屋、呑んだくれなどが多数交錯するために、本当にどぶ泥を漁ったような混乱が巻き起こる。

 そんな中で最も明確さに欠けるのが主人公のライアンであるように思われる。AAに通い、アル中から逃れたと思うと、仕事に迷い、恋に迷い、呑んだくれの夜に舞い戻る。明日も未来も不明確であり、その日その日を適度にはした金で生きていければいいという独り者生活を半端にクルーズしているなんとも足元の定まらない男なのだ。

 その彼が目覚めるのが、宿命的に出逢ってゆく女性デニーズである。州立大を出ているのに身を持ち崩して殺人犯と結婚した挙句、アル中になったが、夫の死をきっかけに今までの生活から逃亡し、AAでライアンを知り合ってゆく。ライアンは自分のだらしない姿を彼女の再生し活き活きしてゆく姿に投影する。恋し、彼女に明日への生きる力を感じ始める。もちろんレナードはそんな甘っちょろい表現をせず、きな臭いサバイバル・ゲームのさなか、少しずつ変わってゆくライアンとデニーズを彼らの行動を通して表してゆく。

 金銭への欲望渦巻く血みどろの死闘の中に投じられたアル中カップルの戦いぶりこそが本書の面白みである。どうやってこの四面楚歌の状況を切り抜けるのか。徐々にたくましく自信を得てゆくライアンの数日間の悪戦苦闘ぶりを文句なしに楽しめる一冊である。

 1977年作品とのことで、若干時代背景にベトナムのくすぶりなどが未だ匂っている。携帯電話もなければ、データベースも書類綴りでしかない。しかし人間たちの滑稽さそのものは現代もそのままである。時代が変わっても人間の愚かさも気高さも基本的にはそうやすやすと変わってはくれないということか。

(2007/04/15)
最終更新:2007年04月16日 00:29