名もなき毒



題名:名もなき毒
作者:宮部みゆき
発行:幻冬舎 2006.08.25 初版
価格:\1,800

 この世界は写実だろうか。それともデフォルメされた寓話なのだろうか? いずれにせよ、宮部みゆきは『模倣犯』以降、暗い現代世相を反映した世界を作品の中に再構築するようになった。

 主人公自体は『誰か』に登場した杉村という市井人なのだが、作品は多くの人々の様々な個性によって構成されている。一人称小説でありながら、不思議と群像小説という言葉を想起させる。それは、作品がストーリー以上に世界を描写する傾向にあるからだ。

 タイトルの妙は、「毒」という字義の様々な解釈をメタファーとして用いる作者の意図に基づくものだろう。メインの犯罪は無差別毒殺事件でありながら、ストーリーは縦軸を取らず、世界を面で捉えようと趣向を凝らす。

 主人公のインタビュー先ではシックハウス症候群という現代の毒が取り沙汰される。その一方では、主人公の職場はある人間の撒き散らす毒に悩まされる。土壌の毒があり、時代の毒があり、孤独な毒があり……という具合に。

 それらが気持ちよく収まるというよりも、モザイク模様を描きつつ、この世界を満たす息苦しい空気を、何気ない日常の明るさの中で、さらりと描写しながら、何かとてつもなく怖い都市の原罪を抉り出してしまうかに見える作品は、宮部という作家の現代小説におけるスタンスを示しているように思われる。

 新聞小説でありながら、最終章を付け足さなくては気の済まなかった物語だったのだろう。事件の整理がつかないゆえに、解毒剤の調合に苦労する作家の人間味がほのかに感じられる終章。

 救いなき時代に、どのように処方を施すか、それは作家だけでは解決しきれない、われわれ読者の側の問題でもあり続ける。平和日本の日常の中に潜む虚無と悪意と、無私なヒューマニズムの混在。物語全体が、一人の探偵の誕生秘話みたいに感じられる読後感が、最も優しさに満ちたもののように感じられる。

 現実と虚構との間にぴんと張られた宮部みゆき的薄膜の肌触りを作品全体から触感として感じることができる。小説にはファーストフードもあるけれど、ときにはこうしたスローフードの地道に、読者は餓えることがあるものだ。宮部みゆきの求心力に吸い寄せられそうになる、久々の魅力ある一冊であった。

(2006/10/18)
最終更新:2014年02月05日 18:46