輓馬




題名:輓馬
作者:鳴海 章
発行:文春文庫 2005.11.10 初版
価格:\590

 航空冒険小説そのものに興味のないぼくは、鳴海章という作家が、こんなに渋い作品を書くなんてことを全然知らなかった。ぼくがこの作家を意識し出したのは、つい最近、花村萬月『たびを』を読んでからのことだ。

 『たびを』は、青年がスーパーカブで全国一周するという果てもない小説なのだが、旅も終盤に近づいた帯広で、主人公は不図したことから、作家・鳴海章に出会い、彼の自宅に数日間お世話になる。フィクションであるはずの小説に実在の作家を登場させてしまうというあたり、この二人の作家の私的な距離が何となく想像されようものである。

 鳴海章という作家が、航空冒険小説ばかりではなく、最近では北海道を舞台にした北海道の小説を、実は書いていると知ったのは、帯広の取引先から偶然、『雪に願うこと』の鑑賞券を二枚頂いたことがきっかけである。映画から原作に興味を持ち、改めてネット検索をかけてみた。東京国際映画祭で四部門受賞という快挙を成し遂げた『雪に願うこと』の原作こそがこの『輓馬』という作品であるため、映画を見る前に、原作に取り組んでおきたかったというのが、そもそものきっかけとなったのである。

 実は故相米慎二監督がやはり鳴海章原作の『風花』を2000年に映画化しているのだが(恥ずかしながらこの事実すら、ぼくは知らないでいた)、『輓馬』に関しても、いたく気に入っており、生きながらえていれば、この映画は相米の手によって映像化されていた可能性が非常に高い。相米の後を引き受けたのが、根岸吉太郎であり、働く者たちを撮るという意味においては、『魚影の群れ』でマグロ漁師を撮った相米、『遠雷 』でトマト農家を撮った根岸と、不思議と共通点がある。

 『輓馬』とは、ある意味で、働く現場の映画である。輓馬の馬たちは、経済の産物であり、価値ある商品である。映画そのものも、また、輓馬という産業に関わる経済の話であり、都会で会社を潰し妻子と離縁してきた青年主人公の破綻は、まさに対照的に描かれるもう一つの経済風景でもある。中央と地方との経済格差を、リアルな労働、賃金という形で差し出してゆくのが小説『輓馬』である。映画『雪に願うこと』はその骨子をいささかも崩さずに、のっぴきならない現実を、観客に、CGの混じらないオールロケ、ホンモノの十勝の冬、ホンモノの馬たちの息の白さで叩きつけてくる。

 小説『輓馬』と映画『雪に願うこと』の違いは、最後の小クライマックスとしてのレースの有無、そのレースに挑んでゆく女性旗手(映画では吹石一恵が体を張って熱演)などの存在、そして主人公らが揃って10歳ばかり若返ったところだろうか。他の多くの部分では、原作の味をいささかも殺すことなく、スムースなバトンタッチがされている秀逸な映画化作品であると言える。

 もし映画化がなければ、この小説はさほど多くの人に読まれる機会を持てなかったのではないか。そう、案じてしまう。北海道では、ばんえい競馬そのものが衰退の一途を辿っている。入場者は年々高齢化してゆき、ばんえい競馬場には若い人が寄りつかない。毎年のように赤字を出す競馬は、文化である以上に、経済である。そして事業としては、負け戦を強いられているのが現在の状況である。来年にもこの世からなくなってしまうかもしれないのがばんえい競馬である。開拓時代から受け継がれた農耕馬レースの名残りであるばんえい競馬の物語だからこそ、全体のトーンが物悲しい。

 帯広の冬、暗いうちから起き出し、馬の世話に人間が尽くし切る。そんな厩舎を営む調教師の兄の下に、家族を捨て都会で一旗挙げた筈の弟が、すべてを失った挙句、十数年ぶりに北海道に還ってきた。兄弟間の葛藤、生活の落差などの中から、徐々に周囲の人たちに溶け込んでゆき、厩舎生活の中で馬の世話をしながら、逃げてばかりいた自分と向き合い始める。

 ラストシーンが実にそっけない。まさに映画そのものと共鳴し合うこのあたりのアンチ・クアイマックスこそが、この作品の評価の分かれ目となるではないだろうか。派手なクライマックスに仕上げることはいくらでもできたろう。しかし、そんな作品は作ろうとしていない、そんな作者の思いが見えてくるようだ。

 逃げ出すことなく、困難な選択肢の方向へと足を向けてゆく主人公の最後の心情をこそ、この小説も、映画も、ともに存分に描きたかったに違いない。

(2006/05/07)