晴子情歌




題名:晴子情歌 上/下
作者:高村薫
発行:新潮社 2002.5.30 初版
価格:各\1,800

 高村薫がエンターテインメントを離れて純文学に挑む日がいつか来るだろうとは『照柿』あたりから予感していたことである。いやデビュー作『黄金を抱いて翔べ』において既に、いわゆる悪文と言われるセンテンスの長さと遠まわしな暗喩的表現を駆使した粘張性のある独特な古臭い文章に出くわしたときから、ああこの作家は人の心や人と社会との関わりにおける泥濘のような部分を書きたいのだなと予感した。

 だからこそ高村薫はただのエンターテインメント作家ではなく、それ以上の次元の何ものかを常に際だたせた存在であり、いわゆる<別物>として日本小説界に君臨したと思う。多くの読者のけっこう忘れていいたある部分に触れてしまう作家として、ある意味で恐ろしく、ある意味で響いてきた。

 北海道にもう6年近く住み、羽幌から初山別にかけてのこの小説のある部分での舞台については数え切れないほど車で走り抜けた。風景の変わらない100キロ。長大で茫漠とした、ただの海と空と荒れ地の風景。そこを切り拓いた日本人のまだまだ浅いこの土地での歴史。それらについて、大阪を牙城とする高村がここまでリアルに書くとは思わなかった。

 当事の時代との時間的隔たりと空間的距離とを併せて、ぼくらの近くに引き寄せる小説という作業に敢然と挑んだ感のある本作の力感。重さ。女性小説と思いきや、何とも逞しい漁業の世界。かつての鰊漁と現在の遠洋漁業。背後にある戦争という暗い世界史と経済とが、いわゆる日本の辺境にまで浸透してくる中、あくまでやっぱり高村の世界は分厚くタフだと感じてしまう。

 野幌という深く広い森が札幌郊外に広がり、そこには数々の北海道開拓に関わる建造物が集められ、開拓村という形で公開されている。鰊番屋には囲炉裏に火が入れられ、ボランティアの老人が半纏姿でお茶を淹れてくれ、当時の鰊漁の話をしてくれる。鰊番屋に出稼ぎにくる漁師たちの数多さや賑わい、鰊番屋で飯を炊く女たちと彼女たちをめぐる若者たちの性について、多くのことを話してくれる。高村薫の取材と開拓村の話とでは少しだけ食い違う部分もある。でもそれらすべてを晴子の主観と回想いう文体を通して物語にしてしまう力そのものは、相変わらず本物なのだ。

(2002/10/07)
最終更新:2007年02月10日 23:56