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マークスの山





題名:マークスの山
作者:高村薫
発行:早川書房 1993.3.31 初版
価格:\1800(本体\1748)

 読後も衝撃が強く長引き過ぎて、なかなか感想を書く気になれなかった。そのくらいパワーとインパクトを秘めた作品だと素直に捉えていただいて構いません。

 高村薫が『黄金を抱いて翔べ』『神の火』で襲撃シリーズに終止符を打って以来、どうやら新しい世界にチャレンジし続けているらしい姿勢はこの作品によって明らかに証明されたと思う。確かに『わが手に拳銃を』『リヴィエラを撃て』そして本書へと、ここのところ一作一作がらりと異なる世界、異なるスケールで描いて見せている。それでいて描写の巧さとか作風とかは、どの作品においても一定レベルを軽く陵駕し、驚くほどの安定感を見せている。すごい作家である。

 作者も語っている通り、彼女の筆がなぞるものはストーリーではなく、キャラクター造形に尽きていると思う。どの作品も編み上げられたプロットを感じさせるのだけど、ストーリー展開よりキャラクター造形にプロットのすべてを傾注しているからこそ、このような重厚な作品が連続して書けるのだと、ぼくは確信を持って思っている。

 まあ、そういう意味ではこれまでの高村ワールドの延長と言えば延長なのだ。だけど前作リヴィエラに続き、マークスという、これまたずば抜けて特異なキャラクターが、今回も誕生したのである。この本はこのマークスの特異さ、その犯罪がもたらした都会の一大惨劇をこれまでにはないドキュメンタルなタッチで綴った大型エンターテインメントである。

 こんなに恐怖を感じさせる連続殺人事件というのは、ぼくの知る限り、あんまりないように思う。どんなミステリーにも殺人というのはけっこう頻発しているし、ぼくら読者はそれを何ということもなく、いや、むしろ殺人があって当たり前、程度に読み飛ばしてしまうものなのだが、この本の殺人はどれ一つとっても、なんだかとても怖い。人間の情念を描くという意味では、作中に登場するドストエフスキー世界への傾斜が、高村薫の場合にはあるのだと思う。そういう恐さが確かにあるから、その延長線上にある緊張感が、作品を最初から最後までゆるめることなく張り詰めさせているような気がする。

 合田と加納という捜査側の二人が、かつて《山を登ろう》《ドストエフスキーを読もう》という二点だけで青春を生きていた、などという描写には、ぼくは何だか不思議な符号でも見たかのような気持ちにさせられてしまった。このフォーラムに馴染みのある人なら、ぼくが山気違い、かつドストエフスキー気違いであったことは周知のことだろうと思う。

 1976年の事件の舞台である白峰三山(北岳・間(アイ)ノ岳・西農鳥岳)も、そこから派生する沢(大門沢、大樺沢)も尾根(池山吊尾根)もよく知っているし、中に出て来る発電所に至るまでが、過去ぼくが現実に脚を踏み入れていた地域である。当然、マークス誕生の地とも言うべき鳳凰三山側(夜叉神峠)も、物語中に出て来る槍ヶ岳北鎌尾根も何もかもが自分にとっては思い出深い地である。それもただの
思い出じゃなく、なけなしでとびきりの思い出の場所だ。

 被害者側も捜査側も山登りという過去を引きずる人間たちであることが、どう見ても特異な小説である。すべてを山という、不可思議で俗世離れした概念に結びつけてしまう作者の意図は、ぼくとしてはわからないでもない。山というのは俗世から思う時、とんでもなく距離のある世界になっている。瞼の裏にだけ存在する異世界なのである。思い出はどこにも繋がらず、切り離されたものになりやすいとも思う。そうした異色の追憶を共有する山仲間というのが、通常の人間関係に較べれば、かなり異質な集団であるとしても、そこに全く不自然さはないのだ。

 そんな山の感覚を作者がよくわかっていて書いていることも含めて、ぼくには、この本が高村薫の最高傑作だと断言できる。ちなみに小説中の登山ルートのほとんどが一般登山ルートではなく、かなり山にのめりこまないと辿ることのない道なきバリエーション・ルートであることがぼくの興味を引いた。これらはぼくの辿った道でもある。高村薫は、登山もきっと半端じゃなかったのだろう。

 なお主人公合田刑事等はシリーズ化されて『小説現代』に 4 月号から連作で登場とのこと。何だか、たまらなく待ち遠しいぼくである。

(1993.04.20)