16号線ワゴントレイル あるいは幌を下げ東京湾を時計まわりに



題名:16号線ワゴントレイル あるいは幌を下げ東京湾を時計まわりに
作者:矢作俊彦
発行:二玄社 1996.04.15 初版
価格:\1,500

 アメリカへの劣等意識が並外れて強いばかりに背伸びをしてやまない中年オヤジ。

 矢作俊彦のような人を一括りにして無理やり言い表すならば、こうなってしまいそうだ。外車やハーレーダビッドソンを乗り回し、レザージャケット、スタジャン、アロハシャツ、あるいは米軍払い下げのアーミージャケットに身を包んだ、かつての洒落た、それでいてけっこう裕福そうなオヤジたち。

 そんなオヤジは巷にいくらでもいて、中小企業の社長や独立してそこそこの金銭を稼いで中の上を超えた生活をして、ときには釣るんで長旅にも出かける。

 そうしたオヤジたちの集団に羅臼のキャンプ場で一度捕まったことがある。人目で登山をする格好とわかりそうなぼくら若者の一パーティに、酒、焼肉、自慢話などを振舞ってくれた。豪快な、とても彼らだけでは捌き切れないと思われるふんだんな食材に、もちろん品のいい奥様方や、我がまま放題のお嬢ちゃまたちの好奇心に答えてゆくという役割もしっかりと割り振られて。

 そうした世代の我儘はどこからやって来たのかを探る、これは指南書であるのかもしれない。ある意味では矢作の著作にいくたびも登場してきた決め台詞の数々を読み解くのに役立つものなのかもしれない。

 16号線に沿った関東の文化は、米軍キャンプの動線として使用された占領下のそれでもあった。オヤジたちはかつての子供時代を、ハーシーチョコや「ルート66」でプータロウの若者たちが乗り込んでゆくコンバーチブルに夢中になって過ごしたという。少なくともヨコハマのオヤジたちは。ヨコハマが横浜に変わるまでのエリア1を軸とした地帯で、フェンスの向うのアメリカを眺めながら。

 関東を動き回ったことのある人ならば、16号線がいかに重要な仕事を割り振られているか、ピンと来るに違いない。少なくとも北海道に移住して10年になるぼくの記憶に最も深く刻まれた国道のナンバーは16号そのものである。

 少年時代を16号線を横断して、中学に通った。駅にゆくにも16号線を渡らねばならなかった。16号というのは、大宮市に住んでいたぼくには生活のキーワードみたいに毎日意識しては越えるべき道なのであった。

 仕事について多くのテリトリーをもらい、ぼくは車を駆って営業に出かける。厚木や横浜で仕事を終えると、ひたすら16号を辿って高速料金を浮かしポケットマネーに変えた。相模原・八王子・福生へと16号を忠実に辿る道は、長く辛かったが、横田基地に叔母のいるぼくは、たびたびそこのゲートを仮IDで通過し、矢作がこの本の中でも書いている、少年たちがゴムボール野球を楽しめるほどに広い緑の芝に囲まれた将校向けのハウスを訪れた。スプリンクラーが散水するのをよけて車を芝に乗り入れ、庭でステーキを焼いている叔母一家に合流し、ブルネットの従妹たちの愛くるしい突撃に耐えるのだった。

 バーボンのボトルを我が叔父である将校が抱えてきた日には、その場でその夜の宿泊を決意し、ぼくはくつろぐ。日本語のわからない叔父との無料英会話教室のなかで泥酔しつつも、ここはどこなのだろうと、不思議に思っていた。クリスマスイブにここを訪れようものなら、その思いはいっそう多くの電飾やデコレーションやケーキ、プレゼントの山などで粉飾され、ずっとずっと強くなる。

 日本とアメリカの距離をずっと意識しながら、戦後の横浜をねぐらに育った少年は、大人になって背伸びを徐々にやめようとしてゆく。そうした矢作俊彦という今は中年オヤジは、愛すべき団塊オヤジであるスズキさんの小説を書き上げた後、本書、あるいは「新ニッポン百景」などにより、現代日本という奇妙によじれた国の発掘に乗り出す。風景をフィルターにして、文章という削岩機で。

 観音崎から横須賀、横浜、横田基地への第一章。川越に向かう第二章。大宮を越えて千葉に向かう第三章。千葉に入り木更津で旅を終える第四章。旅ルポではなく、戦後史観であり、日本の文明のありようを目撃し、切り取ってみせた、味わい深いエッセイである。

 同道するカメラマンの写真がほとんど見ることができないのが残念である。雑誌『NAVI』連載中はこれを含めて味わえたのだろう、きっと。値段は高くついたっていいから、むしろ贅沢な本にして欲しかった(と、ハーレーオヤジのようなことを言う年齢になってしまったのだ、ぼくは)。

(2006/02/12)
最終更新:2007年02月10日 22:50