『新ニッポン百景'95~'97 衣食足りても知り得ぬ[……礼節……]への道標として』


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題名:新ニッポン百景'95~'97 衣食足りても知り得ぬ[……礼節……]への道標として
作者:矢作俊彦
写真:太田真三
発行:小学館 1998.1.1 初版
価格:\1,800

 作家は、巻頭で書いている。前作に続く二年間、ますますニッポンは悪くなっている気がする。その作家の落胆、危機感、怒り、諦念、それらすべてが、'93~'94年の取材に比べるとボリュームアップして感じられるのが確かに本書だ。バブル崩壊は、さらに経時的に民力を衰えさせ、政治の空洞化を推し進めているような気配さえ感じられる。

 もちろん、作家がニッポンを発見してゆく度、ニッポンの抱える真実にどんどん近づいてしまい、問題の大きさがどんどん深刻に感じられていったという時系列的な変化もその背景にはあったろう。しかし一冊目では、ある程度多方向に分散して見えた作家の関心が、本書、それも巻末に近づくに従い、国への不信感という一色に染まってゆく。そのなかに、なけなしの救いを一つでも多く見つけようと、作家はさらに旅を重ねてゆくのである。

 ものごとにはいろいろな表現方法がある。諸々の切り口があり、様々な視点がある。思わぬところで思わぬものが見えてくるのが、人の表現であるとするならば、人の作り上げた風景という具象のみを題材にして積み上げてきた本書の切り口は、それなりに魅力溢れる方法論であったように思う。その中で見え隠れしてきた実体の愚かさ、醜さ、情けなさ、悲しさ、貧しさなどは別にしても。感触としての文化、戦後と、そして今を捉えるための、これはとても効果的な手段であったと思う。

 何なら自分でも真似てみようかと思わせる何かが、ここにはある。『新ホッカイドウ百景』なんて試みてみてはどうだろう。もちろん取材費も、それにかける時間も、写真の腕もぼくにはない。しかし自分の言葉で、自分の目で改めて、自分の住む、自分の旅してきたホッカイドウを、あるいは自分のニッポンを見直し、自分史の中に取り込んで表現しなおすという作業にとても興味を感じているのも事実である。矢作のものではなく、自分のものとしての風景を求め、日常を旅するというのは、果たしてどんなものだろうかとワクワクする気持ちが今はある。

 そんなインスピレーションを与えるのがこの二冊の本であった。その時点での写真は明らかに時間とともに変容するだろう。例えば、栃木県大谷の大谷石採掘現場の陥没孔跡に投棄されたゴミの山がある。一冊目では、孔を埋めつつある大量のゴミ。それが二年後の本書では、ボタ山のように高く聳えている。この二年間に、人間のやらかした愚鈍と、政治の無能を、痛々しくも否応なく感じさせる光景だ。

 どのページにも、共通した愚かさ、醜さ、情けなさ、悲しさ、貧しさが存在する。写真は、それぞれ、別の場所の別の具象を捉えたものなのに、矢作の文章は大抵同じ地点で立ち止まってしまう。そこでは、根が同じである問題が、片付けられぬまま放置され、人間たちの生活を侵食しつつあるからだ。

 ちなみに矢作の言葉は、たいてい暴力的で過激である。とあるインタビューでは、ニッポンは九州に戦争で負けた国だということを言っている。島津藩は江戸から広島を破壊したテロ国家であり、自分は在日日本人として文化の復興を願っているのだというようなことを言う。

 本コラム集にそこまでの暴言はないのだが、江戸時代まで連綿と育まれた文化の国家的喪失、壁で隔離し隠蔽する政治の卑劣、役人自身のためだけにある地方自治、カギ括弧付きの「民主主義」でしかない国、そして根本的な貧しさ、ということを頻繁に言っている。それは、彼の昨今の作品にもエッセイにも言動にもすべて共通している過激でもある。

 一貫性ということで言うならば、考えの是非はともかく、これほど信頼できる作家は、あまり見当たらない。

 そんな矢作の歴史と、数々の風景に、自分の生きる社会、時代を重ね合わせてみることが、この二冊のハードカバーと正しく向き合うコツなんじゃないだろうか。是非、あなたの新ニッポン百景を旅して頂ければ、とぼくは思う。

(2006/03/12)