新ニッポン百景 衣食足りても知り得ぬ[……礼節……]への道標として』



題名:新ニッポン百景 衣食足りても知り得ぬ[……礼節……]への道標として
作者:矢作俊彦
写真:太田真三
発行:小学館 1995.8.10 初版価格:\1,800

 1990年代に『週刊ポスト』を手に取ったことのある人ならば、比較的長期にわたって連載されていたこのコラムには覚えがあるだろう。ひときわ目を引く写真と、都度都度の気になるタイトルによって、それなりに印象的なグラビアページであった。もし矢作ファンであれば、既に抑えておられることだろう。むしろ今さら、旧く、絶版になってしまった本書を手にしているぼくの方が、似非矢作ファンと言われても仕方のないところかもしれない。

 10年以上も前に書かれたコラムと写真。どれもが、今では大なり小なり変わってしまったか、あるいは存在をやめてしまった風景であるに違いない。コラムの後に日本という国にはまたいろいろなことがあった。ここで書かれている政治家も、事物も、既に10年を経過して、黴が生え、錆び付いて、軋んで、泣き喚いているような過去のことばかりのように思える。

 だからこそ、この本はけっこう愉快だ。バブル崩壊直後という時期に書かれた本書は、まだ本当の意味での経済的ダメージを身に負っていないかに見える。バブルの遺産を、どちらかと言えば明るく、面白おかしく、皮肉っているかに見える。作者は、風景や事象に自分史を重ねながら、日本人という民族の持つ愚かさ、おかしさ、悲しさなどを宿命的に捉え、解決のつかない命題として遺された「かたち」を写真と文とでポーズを取り、マウンドから放り投げて見せる。これらの多彩な変化球をどう打ち返してゆくかは、読者側の問題だ、とでも言うように。

 それにしても週刊誌で手に取った頃は、当然ぶつ切りに読んでいたこのコラム。改めて一冊の本として手に取ってみると、矢作の個性がこれほどまでに前面に出てくるものかと、少し驚かされる。週刊誌で切り取られたページは、単発であるがゆえに、人の手が作り上げた愚かな風景にせいぜいため息を吐くのが精一杯だった。しかし一冊の本に纏め上げられることで、矢作という人間の存在が、むしろ事象よりもずっと浮き彫りにされてくるのだ。

 浮き彫りにされるのは作家と向き合うニッポンという国の愚かさでもある。無知で、愚昧で、洗練には程遠い文化を、高度経済成長という六文字に貫かれた戦後を通して、無理矢理求め続け、そして短時間でこねくり上げてきた結果がこれほどに笑える風景たちなのだということを。

 呆れるほどに独断に満ち溢れ、偏見に固定化されたオヤジ作家の日本風景論であるのに、なぜか最大公約数的日本人の真の猥雑さ、それもかなり真実に近いと思われる卑しさまでが浮き上がってしまうあたり、矢作という作家の天才を、改めて痛感させられる。

 時にぱらぱらとページを繰り、気になる写真ならば、一度でも二度でも何度でも、文章とともに味わうことができる、ずっと手近に置いては身の回りを改めて見渡してみたくなる、そんな本だと思う。この本がこうした形になるまでに、多くの取材旅行が百回も実施されている。そうした行動のパワフルさがどのページにも感じられ、それはそれでニッポンの働くお父さんという一風景であるようにも思えてくる。

 付記:あの「スズキさん」が、愛車ごと写真でしっかりと登場している。矢作ファン必見!

(2006/03/12)
最終更新:2007年02月10日 22:47