逃避行



題名:逃避行
作者:篠田節子
発行:光文社 2003.12.20 初版
価格:\1,500

 隣家の幼児を噛み殺してしまったゴールデンレトリーバー。思わず老犬とともに家を飛び出して逃避行を始めてしまう五十歳の主婦。こう書くと、犬とおばさんの冒険物語、という風味だが、そこは篠田節子、犬をきっかけに女の自由を取り戻そうとするヒロインの決意、そしてずっと主婦であったからこそ生まれる苦労の数々がリアルで切ない。もちろん冒険もたっぷりなので、あっという間の一気読み本であったりもする。

 車の運転もできず、体力もなく、若さも美貌も容姿も誇れず、家族のために奉仕した人生から背を向けて目指す場所すら掴めない。五里霧中、四面楚歌といった状況下で、愛犬のポポが活躍を見せる。犬と主婦との間に流れる互いへの惜しげもない交情が、ピュアで何とも言えない。そして人間の生と犬の生の距離を感じ、死生観にまで向かってゆく主婦の想念は、さすが篠田節と言いたいところ。

 日本という場所の狭さ、大らかさのない貧しい性格、自然への傲慢。他の篠田作品にも共通する文明批判の調味を加えながら書き継がれる日本の風景群は、何ともいぎたなくみすぼらしく、せせこましくて、どこまでもやるせない。そんな荒れた自然の懐に姥捨てのように踏み入ってゆく主婦と犬の明日はどこに向かうのか。

 篠田節子の作品としては珍しくラストで二転三転するのだが、さすがにこの辺りの情と冷酷とのバランスの妙とは、ぐさぐさと突き刺さってくる。ピュアな悲しみと引き攣れそうな痛みとが、犬と人間という具象を伴って、何とも皮肉なあたり、情感に流されるだけのやわな動物小説と違って、しっかり孤高に自立している。

 このあたりの深みと世界のビターな味わいが、篠田節子の持ち味であり、少しだけ日本離れ、彼女ならではの無国籍な部分か。老犬の魅力に思わず泣きそうになり、必死の主婦の姿にタフと愚かさとの両方を感じる。この本の、作者も読者もやはり人間の側だから複雑なのである。

(2004.05.05)
最終更新:2007年02月08日 00:05