弥勒



題名:弥勒
作者:篠田節子
発行:講談社 1988.9.20 初版  
価格:\2,100

 進境著しい篠田節子のまたもや驚天動地の新作。篠田節子は、まさに予測不能のポテンシャルを秘めていて、その引き出しの多さに、毎度毎度驚かされるというのが、ぼくの場合の篠田読書の楽しみなのだが、この作品は、前作『ハルモニア』とはがらりと変えた作風の硬質な異国譚となっている。

 日本でのプロローグを経て、物語はパスキムというヒマラヤ山中の小国に飛ぶ。『ゴサインタン』以上にスケールの大きな、秘境の政変に材を取った壮絶な小説である。何をもって壮絶と言うか人の感覚はさまざまだと思うが、まさにこういう話こそを壮絶と表現するのだろうとしか言いようがない。

 原始共産主義的な理想郷を求める一派がヒマラヤの王国を理想のためのまな板に変える。それは完璧な理屈と統治が実行されているように見えるが、予期せぬ死体の群れが新たな国に散乱を始める。一つの理想国家の誕生と滅亡とを、平家琵琶のようにしんしんと語り紡いだこれは巨篇である。 

 日本の女性を描くときと『ゴサインタン』につぐヒマラヤの女性を描くときとのあまりの落差が、篠田の文明観を何となくほのめかす。とても好きになれないいやなタイプとして多く描いてきた篠田版ヒロインたちや脇役の女性たちに比べ、ヒマラヤの小村に生きる女性の何と神=弥勒に近いことか。

 この大いなる実験国家についての、思慮深い丹念な描写は圧巻である。あらゆる断面から実験を理想を分析しつつ物語は進む。死体は山と積まれてゆき、自然は四季感豊かに描かれる。病、天災、土、川……多くの天然的素材をふんだんに使いながら、どっぷりとヒマラヤの小国での仮想体験を臨場感とともに生きることができるような、そうした迫力、皮膚感覚を備えた本である。

 まぎれもない篠田節子の最高作!

(1998.09.27)
最終更新:2007年02月07日 23:32