ローズ・コード



題名:ローズ・コード
原題:The Rose Code (2021)
著者:ケイト・クイン Kate Quinn
訳者:加藤洋子
発行:ハーパーBOOKS 2022.7.20 初版
価格:¥1,480

 この作品にはどこにもブレーキが付いていない。読み出したら止まることができない。約750ページに渡る長大な本なのに、どこにも。それだけでも凄いのだけど、この作家の歴史に材を取った取材能力も努力も凄い。あらゆる歴史的事実の上に重ねてゆく個の物語は、途轍もないエネルギーを持つ。それを抱えた主人公たちは、実在の人であれ、架空の人であれ存在感が半端じゃない。そこがケイト・クインという作家の最大の強みなんだ、と三作目でも改めて再認識。

 そもそも複数主人公を並行させ、それぞれの物語を疾走感たっぷりに交錯させたスケールの大きい物語を作るのが上手い作家なのだが、本作では、大戦中の英国を舞台に、個性豊かな三人の女性、オスラ、マブ、ベスの物語を交錯させつつ、それぞれのラブストーリーと運命とを描き分けてゆく。

 壮大なスケールの作品である。第二次大戦において英・独の戦略を分けた、知られざる暗号解読戦争。そこに携わった人々の運命。綴られるのはそうした確たる事実の上に載せられた物語と個の人間たちの魅力。

 実際にあった暗号解読の秘密施設は<ブレッチリー・パーク>ことBP。この場所は、戦中はトップ・シークレット下に置かれた極秘の施設であり、暗号解読戦争の勝利を英国にもたらした基地なのだが、用済みとなった戦後は、多くの職員ともども放置され、廃墟化したようである。現在は、マル秘事項が多分に解除され、丁寧な復元の上公開されている大変美しい場所となっているので、是非訪れて欲しいと作者があとがきで保証している。

 物語はもちろん史実を題材にしているが、個々のストーリーは作者の創り出したフィクションである。しかし現実の記録や歴史に基づいたところが多く、実名で語られている関係者も多い。驚くのはエリザベス女王が少女からウェディングまでの姿で登場すること。夫であるフィリップ殿下とは、婚姻前に実際に交際していたのが、本作ヒロインの一人オスラであること。フィリップ殿下の若かりし頃がとても活き活きと描写されてとても庶民的で親しみやすい存在に描かれていること、及び戦地となった大西洋で従軍していること。オスラは実在の人物を作者が慮って、苗字こそ架空とされたが、実在の人物をモデルにしていること。

 ケイト・クインという稀有な作家の、史実に材を取った小説の面目躍如たる豊穣な想像力が多分に活かされた作品なのである。

 またトリッキーでミステリアスな作品構造も魅力である。1939年12月にメイン・ストーリーは始まるのだが、1947年11月「ロイヤルウェディングまで11日」というような謎めいた章が挿入される。そこでは短いページ数の間で、三人の女性のそれぞれの運命が暗示されているかに見える。中でも暗号解読の中核にいるベスは<時計の中>という別立ての章を用意され、彼女だけ奇怪な場所で拘束され、ロボトミー手術まで暗示されている、という異様で危機的な状況にあることが、初期時点で描かれてる。いつもながらの意味深な凝った構成である。1939年のメインストーリーが1947年の現在に追い着くまでの壮大な物語を読者は辿ってゆくことになるだろう。

 暗号解読という困難な仕事を引き受ける特殊だが実在した機関ブレッチリー・パークは、それにしても魅力だ。読んでいるうちに愛着さえ覚える。ここに集まる職員たちの強い個性とそれぞれの能力。それ以上に、きつい労働条件と秘密保持の制約の中で結束する仲間や師弟の絆の強さ。ラスト近くでこのことが確認される。涙腺を刺激される感動的なシーン。

 職場では、章が変わる毎に登場する<ブレッチリー空談>という数行のユーモラスで謎めいたコラム。<いかれ帽子屋お茶の会>という名の仲良し職員たちによる青空読書会では世界の古典が取り上げられ、それらの人気や書評が聴かれるので、この辺りも読書子にとっては電気的刺激もの。何と多面的に楽しむことのできる物語だろうか。

 最後に個人的に反省。これまで二作の出版が『このミステリーがすごい!**年』の投票締切(前は10月末だったが三年前くらいから9月末となった)の直前過ぎる発行だったので読む時間が取れず、締め切り過ぎての読了時点で、1位投票したかった、と毎度悔しく思っていた。しかし、今作は7月の発売をぼくが個人的に見逃してしまったのです。凄く悔しい。三年ともケイト・クインをランク投票できていないのだ。同じ思いをしている他の投票者もけっこういるのではないだろうか。こういう凄玉の作品は、締め切り間際ではなく余裕をもって、あるいは次年度を見据えて遅めにでもよいから時期を考えて出版できないものだろうか。それだけでも幅広く読者に認知されると思うだけに、何だかとても残念だし、今年は個人的なミスなので悔恨の思いが根強く残りました(涙!)

(2022.11.28)
最終更新:2022年11月29日 00:23