象の墓場 王国記VI


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題名:象の墓場 王国記VI
作者:花村萬月
発行:文藝春秋 2006.07.15 初版
価格:\1,524

 『ゲルマニウムの夜』に始まった連作中短編による本サーガも、最近では大きな変換もなく、どちらかといえば安定した王国に材を取るなど、本当の意味で短編小説の耕地、といった色合いを深めてきたかに見える。サーガの初期の流れで、堆肥を十分に与えられ肥沃になった沃野は、ようやく作物を次々と実らせるようになったのか、という風に。

 もともと堆肥というのは簡単な代物ではなく、排泄物を発酵させ有機物質の持つ熱エネルギーで土に命を与えようという目的を持ったもののことだ。有機という言葉は、いわゆる生命活性化要素を持ったというような意味合いを感じるが、それ以上に、有機か無機かという判断には、要するに命があるか否かという一点に尽きると思う。小説、物語と同じということだ。

 その意味で花村萬月という作家は有機的な小説を書き続ける。人間の命題であり、属性であるとも言える思考や意識ありきなのだが、その意識が捉えるテーマが、常に、生命、生殖、宗教、死、暴力、欲望などであり、それを育む土壌が、土地であり、四季であり、家族構成であったりする。まさに有機的な繋がりをもった世界表現である。

 本書では、赤羽先生と朧を主役に据えたそれぞれ2作の中篇『象の墓場』『生殖記』を収録。どちらも、比喩的な意味での、この世の辺境を彷徨い、そして王国に還ってきた者たちの現在を描いている。どちらも教子という存在に性という繋がりで関わり、どちらも太郎という超人の庇護者である。本当の意味でのサーガの主人公は既に太郎であることが、このあたりでも明らかであるが、サーガが主人公を持つというよりも、やはり短編それぞれの主人公に命を与えた群像小説であり、世界構築であるように思う。だからこそ「太郎記」ではなく、「王国記」。主役は、王国と言っていいだろう。

 まさに本書の主役は王国そのもの。四季折々の自然といっそうの関わりを持って、王国に人や家畜が生を育む。ストーリーというよりも、人間が生きる最小限の必要不可欠を探り、さらに内から湧き出てくる生命の分泌傾向を分析する装置ででもあるかのように、本書は人間存在の抽象を捉えつつある。文章というこれ以上ないほどに具体かつ即物的表現法による、小説化という作業と、朧を初めとする王国の働き手たちの手作業(ここでは搾乳である)が重なる。

 小説も搾乳も職業であり仕事である。どちらも生き物を相手取り、愛情や理解を必要とする仕事であり、何よりも経済という国家のシステムに組み入れられ、逃れることのできない具象である。そんな日常生活に、不意に紛れ込んでくる他社である男、女、少年。彼ら彼女らとの交情、環境変化、食い扶持の捻出、など土地に生きる人間の根源的な生活そのものが本書の題材となっているのが、何とも不思議である。

 日常生活を読んでいるだけなのに、なぜ味わえるのだろうかと我ながら疑問に思う。人の日常ほど興味を持てないものはない。そんな他人事はつまらないに決まっている。本来つまらない生活小説など、絶対に読まないはずである。なのに、何故自分はこの作家の活字を追っているんだろうと自問する。自分の地平に繋がる普遍化された何かが物語の中に存在しない限り、あるいはわれわれの日常にないよほどの何かが感じられない限り、そんな興味はどこからも沸いてくるはずがないのだ。異常とも言える本サーガの人間関係とその中の比較的平穏な日常。そのどこかに普遍も悪夢的要素もきちんと備わっているに違いない。太郎はその凝縮された雫としてこの大地にぽとりと落とされた一滴なのかもしれない。何もわからぬままに、この奇怪かつ、魅力的な物語は、さらに彼方へと走り続ける。

それにしても野辺山高原の描写がいい。自然の息吹き、季節感などのリアリティが尋常ではない。ここが象の墓場、と繋がるだけでも途方もないインスピレーションである。主観とは怖ろしく、その主観を紡ぎ出す語り部とは、さらに途方もない存在である。

(2007/02/04)
最終更新:2007年02月04日 22:48