業火の市



題名:業火の市
原題:City On Fire (2021)
著者:ドン・ウィンズロウ Don Winslow
訳者:田口俊樹
発行:ハーパーBOOKS 2022.05.20 初版
価格:¥1,309


 読後の興奮冷めやらず、すぐにレビューが書けないほど、この本のカオスにやられた。そしていつもながら、ウィンズロウの文章にやられた。ともかくキックの強い作品なのだ。いつも。キャラクターたちの運命が神の視点で書かれてゆく悲喜こもごもの人間絵図。愚かで、強欲で、弱くて、それでも必死に生きてゆき、時に美しく、明るく、悲しく、それぞれの生を楽しんでいながら、運命の残酷に翻弄されざるを得ない男たち、女たち。

 この初夏、この本の出る少し前の頃、大画面TVに新調した我が家で、ぼくはコーエン兄弟のTVドラマ『ファーゴ/FARGO』シリーズ4作に、遅まきながらはまっていた。ユーモアと残酷を取り混ぜながらの人間の愚かさ、可笑しさ、運命の皮肉などを抽き出してゆく脚本と演出は、昔から変わらぬコーエン兄弟の元気っぷりを見せてくれるが、中でも家族対家族というやくざ一家同士の対立を描くシーズン2と、人種の違いによる長年の二大やくざ組織の平和と対立を描くシーズン4は、それぞれが、ミネソタ州ファーゴ、ミズーリ州カンザスシティが舞台である。

 アメリカの中心とは決して言えない田舎町での殺し合いや絶滅を描くプロットが、実はロードアイランド州プロビデンスという田舎町を舞台にした本書とイメージで重なる。多くの共通点や違いを比べながら本書を『ファーゴ』ともども楽しむことができたのは幸運だったように思う。

 さて本書に集中しよう。手に汗握る展開、個性あふれる語り口、展開の妙、全体の構成、人間喜劇のような皮肉極まる展開、そして終わってみれば愚かな一握りのキャラクターによって引き起こされる大きな悲劇。累々と転がる屍のトレール。どちらも運命の皮肉を痛感させながら、かくも愚かなる闘争に巻き込まれてゆかざるを得ない業と欲にまみれた人間たちの悲劇。

 本書は、ウィンズロウがこれまで数限りなく描いてきた、愚かでありながら精いっぱい人生の海を漕いでゆこうと足掻いてゆく若者たちの姿を、再度、舞台を変え、時代を変え、生き生きと描く三部作の第一篇である。この一作だけでも一端完結しているが、巻末には次作のエピローグというサービス・ページが寄せられている。ここでやめられなくなる次なる地獄への手引きのようだ。

 これまでに巨大麻薬カルテルと執念の保安官の対決や、メキシコからの密入国者たちの運命などを大掛かりに取り混ぜて書いてきた感の強いウィンズロウだが、本書では一端既存の作品をリセットして、人生最後の作品と作者自ら豪語して書き始めた、いわゆる魂の三部作なのである。これまでの他シリーズを読んでいなくても、本書で改めてウィンズロウの作品の魅力、読みやすさ、不思議なその文章の引力、などを体験されることを望みたい。

 長年に渡って全作を読んできたこの天才作家の超愛読者のぼくとしては、最後の作品が、ロードアイランド州プロビデンスという、大都会でもメキシコ国境地帯でもない海の町を舞台にしているところが、一時書いていたブーン・ダニエルズ・シリーズや映画化もされている『野蛮な奴ら』みたいで新鮮であった。のっけからビーチで仲良く遊ぶアイルランド系とイタリア系の二大ファミリーの姿が登場。この辺りの描写がとても書きなれていて上手いのだ。しかしここで登場する二大ファミリーが運命の決裂によって如何に愚かな争いに巻き込まれてゆくかという、例によって時間軸でのスケールが大な物語である。

 人物たちの個性と、運命の歯車が回ってゆく様子を、巨大な人間絵図として見て頂きたい。ウィンズロウのラスト三部作は、何とギリシア神話を基にした人間悲喜劇の現代版=ウィンズロウ版だそうである。壮大な構想。本書だけでも満腹になる内容だが、これは三部作のまだアペリティフに過ぎない。嘘だろう、とそんな風に思わず呟きたくなるけれど、大いなる序章として、まずは十分に満足である。

(2022.07.16)
最終更新:2022年07月16日 15:03