あの夏、風の街に消えた



題名:あの夏、風の街に消えた
作者:香納諒一
発行:角川書店 2004.09.30 初版
価格:\2,200

 大して年の違わないぼくが言うのもなんだが、香納諒一は若くしてデビューし、その頃には背伸びして作者自身より年上の大人の男の世界を描こうともがいているように見えた。れっきとした大人たちの世界を紙の上に作り上げた印象と、そこに見える書こうとしているテーマの頑なさに、過たず方向を見極めて船出しようとする作家的姿勢を見て、やけに興奮を覚えたものだった。

 その作者も四十の壁を越える前辺りから、もともと多作ではなかった筆に慎重さをいや増し、新作から遠のいていた。今では四十の壁を後ろに追い越してぐいぐいと漕ぎ出してゆく海はさらに広さを増して見えるようになった。

 ハードボイルドや冒険小説といったものから、そのエッセンスは失わず言葉の深みや心のありようの豊かさの方向へと作者の筆は円熟味を増してゆく。短編小説の名手という言葉も妥当と思えるほどに傑作短編集をいくつもものにしている一方で、生真面目で妥協のない長編ハードボイルドを通し、大人の男たちの闘いの世界を次々と描いて、一作ごとにその著しい成長の標を見せつけてきた。

 そんな少しだけ背伸びしてきた作者が、思いがけずこの小説では、若い主人公をノスタルジックに描いているのだ。背伸びどころか余裕のある筆遣いで、二十数年前の東京を舞台にしてしっとりとした美しい小説を作り出している。

 高度経済成長の時代に終止符が打たれようとしているまるで夢の最後の一幕のような時代、西新宿の中央公園を境に時代に取り残されたような空間があり、神田川が流れる。古びた街の、古びた人々が、昔ながらの影を落とす街路に、かつて失踪した母の幻を追ってゆく青春の物語。

 残虐な死体に、見えない悪。地上げ屋の暗躍するバブル崩壊前夜。そうした舞台設定以上に、目立って魅力的な多くの名バイブレーターたち。この人の書く小説の最大の魅力とも言える要素だ。彼ら、彼女らとの出会い、そして別れが物語を紡ぎ出してゆく。

 物語の骨子はミステリーであり謎解きであり追跡調査である。しかし、それを包むオブラートのように優しくも妖しい東京の時代風景は、誰もがどこかで一度出会ったことのあるような、どこか共鳴してゆく音色、心がゆすられるような……そうした種類の情感に溢れている。

 物語はバブルという時代を経てラストのエピローグで脱皮を遂げる。ちょうど日本が不動産景気の逆転を経緯し、経済的荒れ野を歩み始めた頃のように。

 久々の香納諒一の長編小説は、過去を旅して現在に着地するという、やけに懐かしく、そして不思議な魅力に溢れた世界として、静かに息づいて見えた。

(2004.10.29)
最終更新:2007年01月29日 00:03