ロスト・アイデンティティ




題名:ロスト・アイデンティティ
原題:East Of Hounslow (2017)
著者:クラム・ラーマン Khurrum Rahman
訳者:能田優
発行:ハーパーBOOKS 2022.3.20
価格:¥1,300


 イギリス在住の作者クラム・ラーマンはパキスタンはカラチ生まれ。一歳で英国移住、ロンドン育ちの現在はIT企業会社役員、という珍しい肩書の新人作家だ。本書は、作者お馴染みの、ロンドン西部の移民率が高い自治区にあるハウンズロウに育ったムスリムの青年たちの日常からスタートする。

 主人公のジェイ・カシームは麻薬の売人だが、友人の一人は警察官、もう一人はテロリストキャンプにまで参加する民族主義者。再婚相手ができたばかりの母は冒頭からカタールに引っ越ししてしまい、父なし子のジェイは、初めての独り立ちを迎える。

 本書はそうした環境下で、青春小説、成長小説としての基盤を持ちながら、大枠ではイスラム・テロを主題として扱ってゆく。ジェイは独りになった途端、麻薬の元締めに追われ危機を迎え、MI5のテロ対策室メンバーから唐突なスカウトを受ける。

 そう。これは青春小説であると同時に、スパイ小説でもあり、最後は大掛かりなテロ計画とそれを阻止しようと動くMI5や、その中心になぜか巻き込まれてしまったジェイを描く壮大な冒険小説でもあるのだ。平凡な警察小説でもミステリーでもなく、今時珍しいれっきとしたスパイ・アドベンチャー・アクション!

 最初に言うべきだったが、本書は、ひとたびストーリーに入り込むとなかなか読みやめることができなくなる超面白本である。

 ハイテンポな描写力。見知らぬ情報世界の闇の深さ。テロの裏側へのスリリングかつ初心者主人公による潜入の奇抜さ。警官やテロリストであるご近所の友人たちとの駆け引き。そして主軸となるテロ計画への導線と時間単位での息を飲むその結末。それら、スケールある題材やアクションを、離れた第三者視点の中に、二十代の若者の視点を交えながら描き切っているところが秀逸なのだ。

 面白いのは、ある部分はジェイの一人称で、ソフトかつ時にはユーモラスな視点で移民たちの文化、家族の歴史を綴ってゆく部分。それとは逆に、三人称で描かれるMI5を含めた大人たちの側からは、ジェイの勧誘に至る経緯や、テロの実行に至るスピーディな流れが、物語に変則的なリズムを与える。ジェイの内と外と、まさに両側から描かれる立体感である。どうにも緊張と面白さに震えるこの最終部分がたまらない。

 さらにラストのラストは、ショッキングだが、あとがきを見てなお唖然! ネタバレに触れそうなので言えません。ここでは、次作の翻訳も決まっているとのこと、その作品への期待感と強い好奇心とをお伝えできれば、と思う。

(2022.04.25)

『ロスト・アイデンティティ』と『傷だらけの天使』

 おかしいかもしれないが、ぼくの印象では、主人公ジャヴィド(ジェイ)・カシームは、ムスリム版『傷だらけの天使』木暮修である。舞台は英国。イスラム過激派のテロ組織という、木暮修には荷が重いくらいの相手だが、彼を起用するのはジェイムズ・ボンドが在籍したMI5。世界中で一番有名なスパイアクションの胴元なのだ。

 そうなるとスケールとしては『傷だらけの天使』よりずっと大掛かりじゃないか、との声が聴こえてきそうだ。しかし、そうでもない。主人公は、大人になり切れていない不幸な家庭の一人息子だ。でも愛の対象であるママはどんな形であれ存在しているのは、木暮修よりずっと有利に働く。でも彼が生業としているドラッグ売人は木暮修の探偵助手という職業より、ずっとずっと腐敗していて、かつ危険だ。

 何も『傷だらけの天使』と比較しなくても良いのだろうけれど、読むにつれますます比較したくなってくる。きちんとした将来が見据えられない青春の時代、傷ついた心が求める何ものかを、利用する誰かがいて、利用される若い主人公はすべての傷を負い、叫ばざるを得ない。そうした環境自体が両方の作品を印象として繋ぐのだ。そして愛せる。ここは重要ではないだろうか? 両作品に通停する魅力の在処として。如何? 

(2022.4.23) 
最終更新:2022年05月07日 10:59