愛こそすべて、と愚か者は言った



題名:愛こそすべて、と愚か者は言った
作者:沢木冬吾
発行:新潮ミステリー倶楽部 1999.1.30 初版
価格:\1,900

 本書は『償いの椅子』であまりにも強烈な印象を植えつけてくれた沢木冬吾のデビュー作。と言ってもまだニ作しか完成させていないのか。思えば、本書が新潮ミステリー大賞高見浩特別賞を取った同年の大賞が戸梶圭太『闇のカーニバル』(応募時のタイトルは『ぶつかる夢ふたつ』)、また島田荘司特別賞を響堂新が取っている。他の二人は次々と作品を出しており、とりわけ戸梶圭太の多作&人気ぶりは一種のムーブメントにまで近い印象があり、しっかり戸梶イズムを定着させた感もあるくらいだ。

 そこへゆくとこの沢木冬吾の頑固さはある意味際だっているかもしれない。職業ペースでは四、五年にニ作というのでは食べてゆけないだろうと心配になる。馳星周が『生誕祭』の仕事を受けたときに既に雑誌連載を四つ抱えていたのだそうだ。他にイタリアにセリエ観戦に出かけたりナンバーでの対談やスポーツ紙でのサッカー評などもやっていて、それでも食べてゆくために仕方ないことだと言う。作家と言うのはげに恐ろしき職業なのであるなと思える。

 書かない作家はそのまま時代に忘れられてゆくのだろうか。原りょうなどは今どこでどうしているのだろうか? 矢作などはその後どういう収入で食べているのだろうか? コラムニストになっちゃったのか? 

 というわけで『償いの椅子』の四年以上前に書かれた第一作が本書だが、第二作との類似点の多さ、共通項に目が行く。数年前にあった事件を今も抱えた男が主人公であること。その時に受けた傷を心にまで抱えていること。ハードボイルドであると同時にホームドラマとしての色彩が強いこと。守るべき者たちの存在。弱者たちの存在。彼らと自分との関係の回復。こうしたところこそがメインストーリーよりもむしろ物語の支点となり大きな力を産み出していると思われるところ。

 二作目に比べれば確かに文章が荒書きかと思われる。主人公が探偵であり、少しサイコな殺し屋が登場するなど、二作目における個性的な設定よりも、スタンダードな構造をもっていると言える。ラストシーンでの健太の行動、殺し屋との最後の対決シーンなどは少しハリウッド映画的な部分があって全体のバランスにそぐわないサービス過剰と見えてしまうのだが、思えば『償いの椅子』のクライマックス・シーンだってハリウッド映画みたいなものかもしれない。

 作者紹介を見ると岩手県花巻市生まれとなっている。日本映画学校中退となっている。本作は東北の架空の都市、海斗となっているが、何となく打海文三ハルビン・カフェの架空都市海市を想起させる名前だが、本書の方が先に産み出されている。花巻も盛岡も海からは遠く離れているのだが、国道四号にも近いとのことなので、八戸、盛岡、花巻あたりがすべて一緒になったような架空都市という印象を受ける。海がなくては始まらない小説でもある。

 日本映画学校中退というところを見ると、小説のラストがハリウッド映画のような活劇になってゆくのもむべなるかなと言うところである。簡潔な文体。潔いほどの会話。少年や少女を描写する眼の細やかさ。女たちの弱さ、したたかさ。すべてのキャラクターがおろそかではなく、かと言ってくだくだと書きすぎないという抑制にまで好感が持てる。

 日本作家では打海文三と並び(かなり共通点があると思う)、二十一世紀のハードボイルド作家として注目すべき人だ。

(2003.7.20)
最終更新:2007年01月28日 23:54