日々翻訳ざんげ エンタメ翻訳この四十年




題名:日々翻訳ざんげ エンタメ翻訳この四十年
著者:田口俊樹
発行:本の雑誌社 2021.2.20 初版
価格:¥1,600




 田口俊樹翻訳作品で自分の読んだ本を数えてみたら54作であった。特に翻訳者で本を選んでいるわけではないのだけれど、ぼくの好きな傾向の作家を、たまたま多く和訳して頂いているのが田口俊樹さんということであったのだと思う。特に、完読しているローレンス・ブロック作品は、ほぼ全作田口さん訳なので、ぼくのように読書歴にブロックのあの時代があったミステリー・ファンは、少なからず田口俊樹訳で読んでいることになるのです。

 他に田口訳作品でお世話になったところでは、フィリップ・マーゴリン、トム・ロブ・スミス、最近の(パーカーBOOK版になってからの)ドン・ウィンズロウ。いずれも大変な作家揃い。

 最近では、ポーランドのジグムント・ミウォシェフスキ、スウェーデンのガード・スウェン『最後の巡礼者』など、東欧や北欧の原語→英語→日本語、といった英語経由翻訳作品でも、田口さんの名は見られるようになった。いずれにせよ、気づいてみれば、ものすごく日頃からお世話になっていた翻訳者である。

 ぼくはブロックの、特に殺し屋ケラー・シリーズの訳がとても好きで、疑問符の「?」で終わるブロック独特の軽妙な文章などは、毎度笑いを噛み殺して安心しているような気がする。

 また、現在自分が読書会でお世話になっている翻訳ミステリーネットワークを立ち上げたのも、田口さんであったのですね? 本書あとがきを読むまでこれを知らず、当の田口さんご本人を迎えて今月開催される本書の読書会には図々しくも参加申し込みをしているという次第。失礼致しました。

 さて本書。翻訳の舞台裏や、翻訳という仕事の特性など、楽しく読んでいるうちにわかるという内容なのであるが、翻訳スクールの学生向けの文章ということもあり、専門的な部分もあるが、殊更翻訳に関わらない人でも本が好きであれば十分に楽しめる。

 特に驚いたのは出版社を通じて翻訳者が作家に文章の意味を問い合わせることがあるという点である。親切な作家(特にマイケル・Z・リューイン)は、自分の作品のみならず、わかることについては英語の微妙なニュアンスまで教えてくれるらしい。とても優しい方らしいから、改めてもっと読まねばならないかも。

 さて翻訳という作業に関わるエピソードは、実はぼくにもある。獨協大学外国語学部フランス語学科で留年を繰り返しながら山に登っていた頃、黎明山の会の先輩である間座女史が岳(ヌプリ)書房という山岳専門出版社を立ち上げた。ぼくはアルバイトで始終神保町の事務所に通っていたのだが、その頃ヨーロッパアルプスの写真集に、山岳小説家ロジェ・フリゾン=ロッシュが文叢を書いているので翻訳してみないか? と言われたのである。量的には問題があまりないが、非常に高価そうな写真集の翻訳を指示されたのだ。学生だし、フランス語の成績が良いわけでもないけれど、その頃は山が何よりも好きだったから、一応身を乗り出して原書と格闘しました。そのまま出版に漕ぎ着けず、出版社とも諸事情により、疎遠になってしまった。ぼくの下宿には電話すらなかったから、岳書房から急な仕事の連絡は電報で来ていたという時代。せっかく手掛けた和訳原稿は、もったいないので大学で立ち上げた山岳同人・稜線の光の会報にガリ版刷りで掲載しました。40年前の話。人生唯一の超マイナーな翻訳機会。

 こんなアマチュアの想い出話をしたところで、多くの名作を手掛けてきた敬愛する翻訳家・田口さんの本エッセイ集のレビューとは全く関係ないよね? ただ、自分が出版に漕ぎ着けるかもしれない翻訳をしたことがあったというあの経験については、今の今まで忘れていたので(間座社長、ごめんなさい)、それを思い出させて頂いた本書には実はとても感謝をしたい気分だったのです。

 翻訳という作業の機微、面白さ、難しさ、言葉そのものの面白さ、何よりも外国の本が出版され読者の手に渡るまでの、神秘的な作業の魅力とその多様な訳文(具体例が示されたりしています)など、興味深いことでいっぱいの本書。とりわけ翻訳小説の好きな方はメイキング本として是非手に取って頂きたい、面白興味惹かれまくりの一冊であります。翻訳って素晴らしい。

(2021.3.8)
最終更新:2021年03月07日 17:35