イタリアン・シューズ



題名:イタリアン・シューズ
原題:Italienska Skor (2006)
著者:ヘニング・マンケル Henning Mankell
訳者:柳沢由実子訳
発行:東京創元社 2019.4.26 初版
価格:¥1,900

 作家が58歳の時に、66歳の主人公の小説を書くということはどんな感覚なのだろうか。既に人生を終えつつあるが、死ぬことは恐怖であり、外科医であった人生にある大失敗を犯し、世間からも自分からも罰せられ地の果てのような孤島に世捨人のような人生を送る主人公を。

 一年で最も夜が長いスウェーデンの冬至を孤独に過ごしていた彼のもとを、過去に無言で別れてしまった女性が訪れる。2歳年上で、氷の上を歩行器で歩いてきて、しかも末期癌を患って。

 孤独な15年にも渡る孤島での一人暮らしの中で、出会う人間は数日おきにやって来る郵便配達夫だけだった。郵便は来ない。ただ郵便配達夫だけが世界との繋がりのように訪れる。そんな日々が、かつての恋人の登場によって終わりを告げる。森の中の湖に連れてゆくという人生で一番美しい約束を果たしてもらいにやってきたハリエットの登場によって。

 ヘニング・マンケルがこういう小説を書くなんて知らなかった。まるでスウェーデンの村上春樹みたいだ。村上春樹は、どちらかと言うと情より知で味わう部分が大きいけれども、ヘニング・マンケルは知で始まりすべて情に行き着く感覚だ。どちらもいずれ劣らぬ読書の歓びを与えてくれるものの、凝縮された緊張感のようなものは、マンケルに軍配が上がる。

 物語全体を独白体で綴る主人公フレドリックは、とても難しい人間だ。恐ろしい罪悪感と、恐ろしいエゴイズムを併せ持ち、年齢の割に、周囲の人物たちに愛情表現より、むしろ感情抑制のできぬ自己本位な言動をぶつけてしまい、後悔を繰り返す。孤独に追いやられやすい体質の人間なのである。読んでいて許しがたい性格は、読者をも遠ざけることがある。

 しかし人生をどのように終わらせたら良いのか、迷い続ける主人公の黄昏の日々は、たとえ彼がどんな人物であろうと、我々の心に共通の物語として響いてくる。愛情を注ぐ相手が人間であったり、犬や猫であったりしても、その愛情はなけなしの命のひとしずくである。

 15年間隠遁していた彼を襲う激動と出会いと離別の一年間を描いて、非常に静的でありながらダイナミズムを感じさせるこの作品は、ミステリーでもハードボイルドでもない。フィヨルドや深い森と厳しい季節の変化を背景に、凄まじく美しい、人間たちの物語である。叙述の素晴らしさに魅かれ、作品世界に否応なく惹き込まれる小説というものが、存在するのだ。改めて、驚きと、作家の天賦の才とに、物語の豊かさに、読書の時間が満たされる。

 周囲の登場人物を含め、それぞれの老若男女が活き活きと個性的で、印象的で、忘れ難い物語を抱えたまま、主人公と対峙する。時には優しく。時には獰猛に。だからこそ、世界は生きて動いているように見える。読書が旅であるとするのなら、この作品ほど果てしなく遠いところへ連れ出してくれる物語は、そうそう見当たるまい。忘れ難い雪と氷の孤島の物語がここにある。

(2019.05.25)
最終更新:2024年02月21日 21:52