喪失のブルース




題名:喪失のブルース
原題:The Lost Ones (2017)
著者:シーナ・カマル Sheena Kamal
訳者:森嶋マリ訳
発行:ハーパーBOOKS 2018.4.15 初版
価格:¥991

 アンチ・ヒーローならぬアンチ・ヒロイン。十代後半でこの世の悲劇がすべて襲いかかってきたような女性ノラ・ワッツ、ネイティブ・アメリカンとのハーフでもである彼女の三部作の幕開け第一作である。さてその悲劇。レイプと暴力と遺棄。ジャーナリストに救出されたものの、長い昏睡期間を経て出産の大量出血のさなかで目覚める。レイプ犯の子を妊娠していたのだ。精神を病んだままのノラ。生まれた娘は里子に出され、ノラはブルース・シンガーとしての才能を活かし歌手を志したもののアルコール依存症となる。

 アル中からどうやら脱け出せたという段階で、探偵事務所の調査員として不完全ながら社会復帰を果たす。調査事務所の地下室に、雇い主に内緒でこっそり住み着いている。同じく偶然地下に迷い込んできた雑種犬ウィスパーとともに。社会復帰が十分に果たせていないため、精神も外見も傷つき薄汚れている。穴の開いていないまともな衣類はひとつもない。

 ぼくがこの本を手に取ったのは、彼女の住む街がバンクーバーであるからだ。小説では、雨が降り続く冬のバンクーバー。ぼくが春に観光で訪れたときのバンクーバーの美しい記憶と、本作で描かれる灰色の雨降る街とはイメージが相当に異なるが、傷ついたヒロインの心を通してもなお、バンクーバーは海に囲まれた美しい街である。ガスタウンの石畳の坂を下ると、小樽にも弟分がいる世界にただ二つの蒸気時計、その兄貴分の方があって観光ガイドはここを必ず案内してくれるみたいである。観光スポットとして有名な名所なのだが、残念ながら蒸気時計の記述は本書にはない。ちなみに小樽の蒸気時計の方は、最後に見たときは残念ながら「故障調整中」と貼り紙があり、針もすっかり止まってしまっていた。昨夏の北海道地震の影響である。

 さてバンクーバーだ。スタイリッシュなビルと歴史的な建物が混在するビジネス街と、犯罪者たちの多い危険なエリアとして観光客が必ず注意喚起されるイーストヘイスティング通り界隈(ダウンタウンとも呼ばれる)との間の緩衝地帯として、レトロな町ガスタウン(本書では翻訳者によりギャスタウンとされている)が広がる。石畳のレトロで素敵な街並みは、青銅のガッシー・ジャック像の立つ交差点で終わりを告げる。交差点にある肉料理屋でハンバーガーを齧りながら、道路向こうのダウンタウンを眺めていた時間をぼくとしては思い出す。そちら側を歩く人々の表情は確かに、こちら側にいる人々とは違った影を纏っているように見えてならなかった。もしかしたらウィスパーを連れて歩くノラの姿を目撃していたかもしれない。

 美しく海や島を柵越しに見渡すスタンレーパークは、AAのスポンサーであるブラズーカと定期的に会い、互いの禁酒状態を確認し合うスポットとして用意されている。ブラズーカは、不思議な距離感のある存在で、最後まで掴みにくいだけに印象的なキャラクターだ。ノラへの献身的な愛情の行方が今後どうなってゆくかも見どころとなりそうである。

 さて本書の特徴として際立っているのが、ヒロイン、ノラの孤独な風貌である。十代の少女期を、レイプで台無しにされ、アル中の幻の中で二十代を過ごした。そんな設定が、既に彼女の性格を十分にひん曲げている。そして、まだ精神は癒えてない。この本の評判は、実はアマゾン・レビューでは決して良くはない。それもそのはず、ヒロインがまず感情移入を拒むタイプの孤立した可愛げのない存在であるからだ。社会は、彼女を完全に見捨てているわけではないとは言え、真の意味で彼女の心の救いとなっているのは一頭の雑種犬ウィスパーだけである。人を信じず、敵であり距離のある存在としか見られない悲しきヒロインの痛みが、本書を綴る物語の骨子となっているのである。読者をも拒むその人嫌いで性悪な性格と、美しくもない外見は、優しく美しいヒロインしか期待しない読者には既に愛想をつかされているかに見える。

 レイプ事件に蹴りをつけようとするノラの、新たな探索と闘いの旅が、本書ではメインストーリーとなっている。顔を見たこともない実の娘が行方不明になった、と里親から相談を受けたことに端を発し、バンクーバーから、吹雪のスキーリゾートへ。そして、戻ってきたノラは、バンクーバー島の美しい海岸と決着をつけることになる。激しいアクションの連鎖と、これに耐性を持つノラのサバイバル根性がひと昔前の冒険小説を彷彿とさせる。

 女性作家が冒険小説をうまく書けたためしがない、というのはぼくの感覚である。残念ながら本書でもその感覚は否定されることがなかった。むしろ、女性作家としてはうまく書けた部類だろう。それにしてもやはり問題は残る。活劇シーンがダイハードなみのぎりぎり感でリアリティに欠けている。さらにいくつか。しっぺ返しを食らうのを知らずにノラを助ける、気のいい人たちとの出会いが多すぎたり、ノラの進む方向に極めて都合の良い偶然が用意されていたり。物語づくりということを言うと、詰めの甘さを感じさせるが、デビュー作ということでここは許容したい。極めて多いスリリングなアクション・シーンのいずれもがリズム感とリアリティに乏しいが、ラストの危機に対しブルース・シンガーとしての才能でどんでん返しを図るアクロバティックな仕掛けは、エンターテインメントとして、小説がロマンだということに於いてはとてお素敵な仕掛けとして捉えたい。

 訳者がその解説で勧めている通り、ニーナ・シモンのブルース"Feelig Good"をYouTubeで聴いて本作に臨むと良いと思う。そそられる歌である。また、途中出会うピックアップトラックの女性運転手が、ぼくが世界で最も敬愛するミュージシャン、ニール・ヤング(カナディアンです)をかけていた。ノラはこの助手席で「フォーク・ソングを聴きながら」窮状から逃げ出すことができるのだ。"Heart Of Gold"あたりが、ノラの精神を救い出した形跡は、残念ながらどこにも見られなかったけれども。

 第二作『鎮魂のデトロイト』は今春4月に発売された。本書でも父の自殺は語られているが、その真相を追ってデトロイトに飛ぶ話らしい。作家としての腕が上がっている、とのもっぱらの評判である。ブルース好きの楽しみが一つ増えた。

(2019.05.21)
最終更新:2019年05月21日 13:16