春嵐



題名:春嵐
原題:Sixkill (2011)
著者:ロバート・B・パーカー Robert B. Parker
訳者:加賀山卓郎訳
発行:早川書房 2011.6.15 初版
価格:¥1,900


 「砂糖はいくつ?」 
 「三つ」

 どの主人公も、コーヒーをそんなに甘くして飲むので、実は心配していた。心配の根は作者のロバート・B・パーカー。でっぷり太った作者画像と、甘いコーヒーの生活習慣。パーカーは、執筆のさなかに心臓麻痺を起こして唐突にこの世に別れを告げることになった。作中では相変わらず、スペンサーも刑事たちも、コーヒーに砂糖やミルクを山ほど入れて飲み続けている。彼らは、作者と違って不死身なのだ。作者没後9年を経た今でも、死の危険なんて顧みることなく、今日も彼らは、減らず口を叩き合いながら、砂糖とミルクでどろりとしたコーヒーを、せっせと口に運び続けている。

 最終編はまるで『初秋』のようだ。スペンサーは若者を鍛えてゆく。少年ではないが、まだ人生を少しはましな方に方向転換するには十分間に合いそうな年齢だ。おまけに、先住民族血を引いている。誇り高き血だ。原題の『シックスキル』とは若者の名前である。邦題を『春嵐』に変える必要なんてなかったのに。若者のこれまでの育ちは、ダイジェストで作中に挿入される。珍しいケースだ。若者は、パーカーが好きになる。パーカーも。どちらも少し似ているらしい。

 前作のまま相棒のホークは不在。中央アジアに出かけたままシリーズが終わってしまうとは、まさかホーク当人も思ってもみなかったろう。凄腕の殺し屋がやって来るというのに。スペンサーは、シックスキルを味方につける。鍛えて方向転換してボウイナイフを握りしめる若者を。

 スペンサーのシリーズでは、事件はいつもそうなのだが、さして難しかったり奇想天外だったりするわけではない。私立探偵は、化学捜査に頼ることはできない。指紋もDNDも手に入らない。スマホでネットに接続する描写はついぞなく、同時に書かれた作品では、SDカードの代わりにカセットテープを録音に使っていた。いろいろな意味で、スペンサーの仕事には警察のお友達が欠かせない。今回はマーティン・クワーク。出演者全員がアナログ世代である。懐かしい文化。レトロ。ボストンには、それがまたよく似合う。現在の小説をいくら集めたって、こんな化石みたいなハードボイルドを探し当てることはなかなか難しい。

 スペンサーは、手に入らない証拠よりも、人との会話によって事件の真相に迫る。会話の中にある嘘と真実を嗅ぎ分ける。あるいは、会話の相手がどういう人間かを探り出す観察力に長けている。なかなかそういう証しが得られない場合には、物事を引っ掻き回す。無理にでも人間の本性が現れる状況を作り出す。時には敢えて怒らせる。そして寡黙な若者に対しては、なぜかトレーニングの機会を与える。その上、冗談まで言える明るい青年に変えたりもする。スペンサー・マジック!

 心理カウンセラーであるスーザンとの会話も重要だ。年中、いちゃついているだけのようにも見えるが、ウィットに富んだ会話は読者も楽しむことができるし、事件の洗いざらいを二人で検証したり、それ以上に、なぜスペンサーがその事件に取り組むのか? という哲学的問題にまで踏み込むのが常であり、これまた読者にとって最も重要な部分であったりする。そして彼らを彼ららしくあらしめるもの、生きる態度に強くこだわる。互いにそういう確認作業をしなければ、一歩も進めないみたいに。その不思議な信頼関係が、シリーズの魅力の一つだ。否、一つだった。もうこれ以上、シリーズ作品はない。

 そんなスペンサーのエッセンスでいっぱいの最終作が本書である。ライト・ハードボイルドなどとも言われたこともある。しかし長く書き継がれた事実自体は、途轍もなくヘビーなことだと思う。今さらになるけれども改めて、フェアウェル、R・B・P! そして彼の作り出したスペンサー!

(2019.05.15)
最終更新:2019年05月15日 16:16