沼の王の娘




題名:沼の王の娘
原題:The Marsh King's Daughter(2017)
著者:カレン・ディオンヌ Karen Dionne
訳者:林啓恵訳
発行:ハーパーBOOKS 2019.2.20 初版
価格:¥1,000


 設定が凄すぎる。凶悪犯の父が刑務官二人を殺害の上脱獄した。娘は家族を非難させ、父を狩るために、原始の森へ帰ってゆく。かつて父に教えられ、父を超えた、あの狩りの技術を駆使して。そういう設定である。

 12年前。ヒロインのヘレナは父に誘拐監禁された母とともに森の中の父による幽閉生活から脱出し、父は終身刑を課され重警備刑務所で獄中にあった。その父が脱獄したのだ。

 ぼくとしてはワイルドなアメリカ・カナダ国境の山の奥で、父と娘の壮絶な闘いがずっと演じられる作品を思い描いていた。C・J・ボックスの『鷹の王』が描いたネイト・ロマノスキーの凄まじい闘いのように。サバイバル技術に長けていた映画『ランボー』のように。

 しかしこの物語は、闘いに向かう現在よりも、むしろ、完璧に幽閉され、外の社会を全く知らずに育ち切ってしまったヘレナの過去に重心が置かれる。その特異性、独自性に物語の奥行きは存在し、その暗闇ゆえに、父娘の愛憎がもたらす、のっぴきならない底深さを、読者は否応なく思い知らされるのだ。

 14歳の時に誘拐され、森の中のキャビンに幽閉され、そこで虐待され、レイプされ、子を産んだ。精神の底から100%の奴隷と化してしまった母。父から森と狩りの教育を施され、逞しく育ったヘレナ。ヘレナの一人称で語られる、独自で偏った過去と、現在がクロスしながら物語は進む。

 時折カットバックされるのが、ヘレナが読んでいたとされるアンデルセン童話『沼の王の娘』からの抜粋。沼の王とは父のことであり、娘とはヘレナのこと。過去と現在の描写、そして童話の暗示するもの。三つの断章により語られるヘレナという人間像。父という男の暗闇の正体は、やはり過去の虐待にあったという。暴力の連鎖。汚れた血の系譜を断ち切るために暴力から非暴力へ。普通の暮らしへ。

 全編、そんな幼き少女の悲鳴という圧力が充満した物語なので、読むほうも心してかかりたい難物、かつ重厚、そして確かな読みごたえを感じさせる大自然の描写。街を離れた完全自給自足生活。狩猟民族の系譜。力と頭脳の対決。愛と憎悪のひしめき。

 本作は、ミステリの重鎮が多く獲得している名誉ある賞バリー賞の最優秀作品賞受賞の栄誉に輝いた。『一人だけの軍隊』(映画『ランボー』原作)の作者デイヴィッド・マレルからのエールもあったようで、作者は彼に、登場する猟犬の名ランボーの名を冠し、さらいあとがきでの謝意表明で応えている。

 サイコ・サスペンスと言われてもいるが、ワイルドなサバイバル小説、あるいは懐かしい冒険小説のジャンル名も似合いそうな骨太な、否、骨太すぎる力作である。

(2019.05.05)
最終更新:2019年05月05日 16:17