戦場のアリス




題名:戦場のアリス
原題:The Alice Network (2017)
著者:ケイト・クイン Kate Quinn
訳者:加藤洋子訳
発行:ハーパーBOOKS 2019.3.20 初版
価格:¥1,204

 最初に手ごわそうな予感。一見して、気難しい貴婦人のように見えるこの物語は、大抵の魅力的な女性がそうであるように、時間とともにようやく心からの笑顔を浮かべ始める。最初の100ページは、とりすましたよそ行きの表情を浮かべるばかりか、興が乗らないでいると、今にも、構えたルガーの引き金を引きそうな、緊張感に満ちた険悪な悪女との出会いといったところだ。しかし、とっつきくい女ほど、後になって味が出てくる。そして情が濃い。本書はそんな、ファム・ファタルみたいな、いい女を思わせる、とても魅力的で奥深い作品なのだった。

 第一次大戦時、ドイツ占領下のフランスで、深く静かに潜航しつつ情報を収拾する、女スパイのネットワークが存在した。実在の人物を交えつつ、1915年のリールのレストランで、スパイ活動に携わるイヴの物語が語られる。

 さらに第二次大戦後、空爆の爪痕の残るロンドンに渡った、19歳で妊娠中のヤンキー娘シャーリーが、戦時中フランスで行方不明になった親友ローズの行方を捜すロード・ノヴェルが、もう一つ併行して語られる。彼女の随行者は、30年後の変わり果てたイヴと、その雇われ運転手フィン。用意された車はポンコツのラゴンダ・コンバーチブル。ちなみに1940年代のラゴンダは、なかなか趣のあるクラシックカーとして、今もインスタ映えのする画像をネットで散見することができる。

 暗い時代の息詰まるスパイ活動の描写と、戦後の明るいティーンエイジャーの妊婦率いる、ポンコツ車での三人旅が、交互に語られ、回想と旅とは徐々にひとつの物語に束ねられてゆく。フランスの風光明媚な土地巡りの途上で、戦争に巻き込まれたローズの足取りを追うにつれ、イヴの回想に現れる雇用主ルネの悪党ぶりも際立ってゆく。スパイ活動でイヴが味わわされる臍を噛む想いを、シャーリーの明るさで中和しつつ、ポンコツのラゴンダで運ばれる物語は、次第にギアを上げてゆく。

 さて、フィリップ・ノワレに泣かされたというフランス映画ファンは少なくないだろう。ロミー・シュナイダーに泣かされた方も。二人とも、重要な反戦映画にいくつも出ている名優である。二人の共演作である『追想』を観てから半世紀近くが経とうとしている。だが今も、そのときのショックは忘れ難い。ナチによる無差別虐殺で絶滅した村が、オラドゥール=シュール=グラヌである。あの映画を観た方は、この小説で、あの現実にあった物語とその現場に、否応なく再会することになる。詳しくは村名で検索をかけてみるとあまり伝えられていない歴史的事実が改めてわかる。

 シャーリーたちが辿り着く重要な地点の一つとして描かれるその村。そして南仏リビエラ地方の香水の都グラースに旅は終わる。物語も、もちろんここで。陰惨な戦争という大きな絵巻物語で語られたのは、とりわけ女スパイとして送り込まれた者たちの勇気と代償。また、何よりも彼女たちの生き方である。そして戦争の犠牲者たちへの悼みと、生き残った者たちの、再生の物語である。女流歴史小説家による重厚なテーマの大作ではあるが、読後感は、優しさと光に満ちている。

 実在の人物が多く起用された、ほぼ9割方歴史的事実に基づく魂の滅びと救済の物語を、一人でも多くの、特に女性にお読み頂きたいと、そう願ってやまない。

(2019.04.26)
最終更新:2021年11月19日 12:05