人生教習所




題名:人生教習所
著者:垣根涼介
発行:中央公論新社 2011.9.30 初版
価格:¥1,700-



 この小説は作者の心象風景のようなものなのかな。ふとそう思った。いや。小説というものは、すべからく作者のなかに生まれた心象風景なのかもしれない。そうした心象風景を、不特定の見知らぬ読者たちに表現として受け渡す方法こそが小説、であるのかもしれない。

 本書は小笠原で行われる人間再生セミナーを三人の男女の視点で描いた長編小説である。思考や五感は主人公らに委ねられ、その中で参加者たちの実像が明らかになってゆく。同時に三人も自分たちを新たな眼で見つめなおしてゆく。読者は、時系列に従ってセミナーをシミュレートする。変わった小説である。物語は、ここにはない。むしろ主人公らの回想の中に物語が存在する。出会う人たちの中に物語が存在する。

 島に暮らしてきた人々。戦前から住んでいた人たち。戦争中に疎開し、島に戻ってきた人たち。戦後移住してきた人たち。小笠原に魅せられてとりあえず移り住んでいる人たち。小笠原固有の島の歴史に沿って、米日の国籍を変えた人たち。変えなかった人たち。多くの個人の歴史の集積が今の小笠原を作っている。作者はそんな語り口で、本書を群像小説に作り上げたのだと思う。

 何のてらいもない。再就職の一手段として参加した者。老後の孤独な時間を埋めるためにやって来た者。人生の先々が見えないゆえに救いを求めてきた者。自信を失い行き場を失った者。彼らの再生を、物語ではなく、あくまでセミナーのルポルタージュのように描いた、現実に近いところに身を寄せた小説なのである。珍しい、と思う。

 元アメリカ人で今は帰化して日本名になっている方々の講話は、作者取材によるところが多いようであり、現実に1962年というポイントで、唐突にアメリカから日本に返還された小笠原と、そこに暮らしていた人々の混迷が語られる。兄弟のうち半分はアメリカ人として本国に渡り、半分は日本国籍を取得して東京に就職したり島に残ったりしてきたという現実。戦争という歪みに曝された島の現実は、彼ら数名の語りから得ることができる。

 小笠原の自然は、登場人物のほとんどの人間から好ましい目線で描かれている。癒し、再生の象徴としての海であり、空であり、夕陽であり、永遠である。小笠原に興味のある方なら、そちらの側面から読んで頂いてもよいと思う。読めば誰でも一度は小笠原に行きたくなるような本である。歴史、自然、またそれ以上に血の通った観光案内書としても貴重な一冊である。

(2019.3.31)
最終更新:2019年03月31日 14:41