月は怒らない




題名:月は怒らない
著者:垣根涼介
発行:集英社 2011.6.10 初版
価格:¥1,600-



 痴漢を取っ捕まえ、ホームの片隅で過剰なほどの暴力を奮った後、財布を奪い取り、後々足の着くクレジットカード類には目もくれず、現金だけを抜いて、被害に遭った女性に被害料と言って大方を差し出し、自分の手数料分も一部抜いて立ち去る男。職業は、悪質金融業者から過重債務処理を請け負うフリーランサー。

 『ヒート・アイランド』シリーズの登場人物と言ってもおかしくなさそうな男の登場に、垣根涼介、古巣のクライムノヴェル・ジャンルへUターンか、と思わず快哉を叫ぶ。『君たちに明日はない』シリーズ以降、いわゆる庶民派普通小説のジャンルに転向した感の強い垣根涼介、実は、残念ながら本作でも別にクライムやノワールに戻ったということではなかった。これは現代という都会を漂流する男女たちの運命の交錯と、彼らの生き方の模索、そして変化を描いたヒューマン・ノヴェルであったのだ。

 何故か天性の引力を持つ一人の女性を、男たちの視線で囲繞するように捉え表現しつつ、男たちも彼女を通して自分の人生に向かい合ってゆくという、簡単に言うとそんな構成だが、小説としてのストーリーテリングは、やはりこの作者の得手とするところ。奇妙な出会いや、それぞれの個性、劇中対話の癖の強さ、視点変化の醍醐味など、それぞれにプロの技巧として味わえる。

 冒頭で紹介した粗暴な男にしても、不遇な育ちの末に人嫌いとなり、図書館に逃げ込んでは、ヒューマンな小説を避け、ジム・トンプスンやジョゼ・ジョバンニ、アンドリュー・ヴァクスやジェイムズ・エルロイなどのノワールを己のものとして読み漁る(何故かどの作家もぼくの愛読作家であるよ)。彼の他に、迷える軽薄学生、ノンキャリアの交番巡査、元エリートのホームレス、記憶障害の老人。小説は猫の目のように視点を変えてある一人の女性を中心とした円を描いてゆく。

 ヒロイン、三谷恭子。市役所勤務。紺のスーツ。自転車通勤。地味なアパート住まい。顔立ちは特に目立たない。外食はせず手料理。趣味は部屋でジャズをかけることくらい。必要なこと以外は口にしない。謎の多い<ファム・ファタル>(<宿命の女>の意ですよ)的要素だけがともかく際立つ。

 男たちは何故、彼女に引き寄せられるのか? 振り幅の大きな派手なストーリー展開ではないが、アラブ産のナイフや免許証など、小道具の使い方も印象的だし、ヒロインの時々の決断が全体の舵を切ることにより、彼らの世界が波立つ辺りも不思議な情景だ。

 記憶障害の老人が及ぼす影響も強く、時に哲学的に偏るシーンなど小説としてどうかなと思うが、このこと自体、作者の最近の方向転換における模索や実験のようなものと思えば、興味が尽きない。次作『人生教習所』(現時点で未読)へと繋がるであろうこの作者の変化を、まずは追跡してみたいと思う。

(2019.3.29)
最終更新:2019年03月29日 19:00