狼の領域



題名:狼の領域
原題:Nowhere To Run (2010)
著者:C・J・ボックス C.J.Box
訳者:野口百合子訳
発行:講談社文庫 2016.10.14 初版
価格:¥1,000


 不覚にも、本作を読み逃していた。『冷酷な丘』『鷹の王』を先に読んでしまった。興趣を削がれるとまでは言わないだが、その後の運命を知らぬ人物が何一つ知らされず登場しているところに差し掛かると、さすがに複雑な気持ちに駆られてしまう。シリーズはやはり十分に気をつけて読まねば!

 さて、本書は、シリーズの一つの分水嶺である。ワイオミング州サドルスプリングの猟区管理官であるジョー・ピケットは一家で山から町に住まいを変えたり、ジョーのみが単身赴任で、イエローストーンやシェラマドレの猟区に追いやられてしまったりと、そもそもの愛しき我家に戻れない日々を余儀なくされていたのだが、本書で待ちに待った帰還命令が出る。

 しかし故郷に帰る前の一仕事を完了させぬわけにはゆかない。ジョーは、予想を遥かに上回る奇怪な事件に巻き込まれ、心身ともに深手を負い、命からがら苦境を脱する。故郷に帰る前にやるべきことをやらねばならない。決着をつけねばならない。ジョーが常にこだわってきた己れの生き様と、死や暴力のもたらす運命への恐怖の狭間で彼は苦悶し、本書では、さらにぎりぎりのポイントまで追い込まれることになるのだ。

 ディック・フランシスのファンであれば、きっと『大穴』『利腕』の主人公であるシッド・ハーレーを久々に想い起こすことだろう。自分の腕を拷問で失ってもなお、自らの名誉を守り切ったあの探偵の記憶は、ミステリの一つのエポックを生き抜いた忘れられぬ主人公の一人として、記憶から削除しようとしない読者も少なくないだろう。荒野のディック・フランシス、と呼ばれる本シリーズも、ついに本来の場所に戻ってきた。そう実感できるのは、シッド・ハーレー同様に、極限の選択を迫られつつも、決して自分を売ることなく、命を張ってでも我が生き様を貫こうとするジョーの魂の強さなのである。

 さて、本書ではのっけから、ただならぬ気配に満ちた100%の自然を、ジョーは二頭の馬とともに進む。最近奇妙なことばかりが起こる山上の世界にジョーは疑念を感じていたのだ。やがて双子の自然生活者との出会いをきっかけに、ジョーは非情な暴力に曝されることになる。

 内輪話だが、このストーリーの起点になったのは、作者ボックスが取材してきた実在の猟区管理官が実際に出くわした野生生活者の双子との奇妙な出会いというエピソードであったらしい。社会に一切の痕跡を残さず、誰にも関わらず、完璧なウィルダネスのさなかで、人生を送る者が全米に相当数いると実際には見込まれているらしい。日本でもかつて山窩と呼ばれ、戸籍を持たない浮浪漂泊者の存在が多数確認されている。

 ジェイムズ・ディッキー作『救い出される』は、暴力的な野生生活者に出会って命の危険に晒された若者たちの悲劇的な物語であり、『脱出』というタイトルで、ジョン・ボイト、バート・レイノルズらの役者を揃えて映画化されており、本作の背景には、小説も映画もとても重なる部分をぼくは感じてしまった。

 今回、ジョーが巻き込まれるのは、法や社会という概念が通じない兄弟との闘いである。しかし死地を潜り抜けたジョーが、やがて知らされてゆくのは、兄弟の逃亡の原因となった、より強大な悪の存在であった。ネイトとの再会は、本書の折り目ともなっているが、前述のシリーズの分水嶺と評したまさにその瞬間でもあると思う。ネイトの哲学と、ジョーの誇りという矛盾が大自然を背景にどう折り合いをつけてゆくのかも見どころであり、シリーズ全体を通しても重要なポイントだ。

 巻置く能わず、緊張とスリルが続く傑作冒険小説であるとともに、心の在りようを問われる男たちの極限の選択が、恐ろしいほどの劇的展開を生み出している。作中のほとんどのシーンが、自然、野生を背景にした男たちのサバイバルであると同時に、作品全体が真の悪の罪深さを暴き出す展開でもあるという、非常にアクロバティックなプロットを持ち、シリーズの頂点的作品と言われるのも頷ける。高密度小説。シリーズ読者であれば、読み逃しなど絶対に許されない一冊なのである。再三の自戒とともに!

(2019.03.22)
最終更新:2019年03月22日 15:39