炎の色




題名:炎の色 上/下
原題:Couleurs De L'incendre (2018)
著者:ピエール・ルメートル Pierre Lemaitre
訳者:平岡敦訳
発行:ハヤカワ文庫HM 2018.11.25 初版
価格:各¥740

 カミーユ・ヴェルーヴェン警部のシリーズ)で一気に燃え上がった感のある作者ピエール・ルメートル。あちらは文春文庫。第一次大戦に纏わる物語を描いた『天国でまた会おう』は早川書房でハードカバーと文庫版の同時刊行。この作者特有の、とても奇妙な主人公の人生を描き、ゴンクール賞(フランスの芥川賞)・英国推理作家協会賞を受賞し、国内でも話題を読んだ(ルメートルはどの作品でも話題を呼んでしまうのだが)。本書は『天国でまた会おう』の続編ではあるが、一部登場人物が重なることと、時制が前作を引き継いでいることの二点だけであり、前作が未読であっても全く独立した小説として十分に楽しめる。単独でも、相応の推進力を蓄えた大変な力作である。

 本書はヴェルーヴェン警部シリーズを思わせるクライム小説ではない。あくまで前作同様、歴史的事実を脚色して描いた1927年パリに始まる一族の壮大な物語であり、ドイツに台頭するナチズムの風に曝される時代でもある。壮大な一族の物語というだけで、退屈という不安に身を引きたくなるかもしれないが、全く心配には及ばない。作者のストーリーテリングの力が、最初のページから読者を物語の渦中にぐいぐいと引っぱり込んでくれるからだ。

 スタートから騒動は始まる。一大企業帝国を築いた企業主の盛大な葬儀のなか、7歳の孫ポールが三階の窓から転落するという事故が大衆の面前で発生。落ちたポールは幌に跳ね返って、馬車に積まれた棺桶に頭部をぶつけて生死を彷徨う。この物語の主人公は、ポールの母マドレーヌ。眠り続ける状態から徐々に少しずつ機能を回復してゆく息子への介護。しかし彼は、いつしかオペラへの天才的理解力を見せ、世界や時代への感受性をも研ぎすましてゆく。オペラ歌手ソランジュ・ガリアートとの間に始まった二人の奇妙な親交は、ナチス・ドイツからの彼女への講演要請を巡って決裂してゆく。ポールの登場シーンは、ことごとく小説全体を照射する神の声のように、作品世界に超然たる異質な曲面を滑り込ませる。

 さて物語の主人公は、最初から明確なのではなく、俯瞰的に進む。多くの人物のそれぞれが回してゆく物語の中で、ある人物による壮大な仕掛けが進み、唐突に巨大で恐ろしい罠が瞬時にして閉じられる。祖父の築いた一大帝国の事業の中で準備されてきた罠の壮大さに呆れ返る。しかし、これらは実際にあった歴史上のできごとをモデルにしている。金融と報道。見えざる力を使った巨大スケールの逆転劇が、実に周到に語られてきた前半部からの折り返し点なのである。

 そしてマドレーヌの巻き返しは、そこからスタートする。全体を見ると、敗退と逆襲。二部構成と言ってよい物語で、その折り目ははっきりしており、ここを通過する頃には、読者の大半は本作の魅力にすっかり身を任せ、魔法のような展開に目くるめく状態となっているはずである。経済やマスコミや政治を材に取り、のっぴきならぬ闘いに巻き込まれてゆくマドレーヌ。その背景に迫るファシズムの嵐。動乱の時代に震えるポールの愛すべき感受性。二つの大戦に挟まれたこの時代、有象無象の人間たちの悲喜劇を見事なまでに描き、全体が大仕掛けのコンゲーム小説としても楽しめる本作。

 ルメートルという作家が並でないのは、最初の話題作『この女アレックス』で十分おわかりのこととは思うが、ここまでスケールの大きな物語作家であるとは予想もしていなかったのではないだろうか。ルメートルは奇術師的な小手先のトリッキー作家などではなく、小説の王道をゆく正真正銘の天才的語り部なのである。

 スケール感のあるこのシリーズは、三部構成だそうである。二部を終えた時点で、次作への期待感がさらに膨らんでゆくのを感じる。

 本シリーズ第一作の『天国でまた会おう』は、その映画化作品がセザール賞(フランスのアカデミー賞)5部門受賞、本年3月1日より、3/15現在公開中である。

(2019.03.15)
最終更新:2019年03月15日 12:17