昨日がなければ明日もない



題名:昨日がなければ明日もない
著者:宮部みゆき
発行:文藝春秋 2018.11.30 初刷
価格:¥1,650-



 人の個性を有機的に配置するだけで、何かが起こる。本シリーズはそういうところに生まれるトラブルや、助けが必要な状況、必要とされる謎の解明といった物事への対処を仕事とする杉村三郎という登場人物の、言わば事件簿である。

 前作『希望荘』中の中編『二重身』で発生した東日本大震災の後の一年間を背景にした杉村三郎の三つの事件を綴った中編作品集が本書である。東京下町の庶民の日常や世相を活写した、いわゆる現実世界に誠実な対応をする小説集なので、ぼくは安心してこの作者の本と向かい合うことができる。過剰ということがぼくはあまり好きではない。作品『模倣犯』は素晴らしいのに、映画『模倣犯』はまるで怪獣映画の過剰であった。この人の作品は小説だけであってほしいし、本のページを繰る作業が、自分にはとても居心地が良いのである。

 宮部みゆきの作品に欠かせないのが、悪人の存在だ。それこそ過剰なまでの悪意、欲得、利己主事、エゴ、粗雑で暴力的で屈折した心だ。常に出会いたくないそうした負の要素がどうしても、穏やかな日常生活の隙間にふと滑り込んでくる。そうした時に起こる大なり小なりの摩擦こそが、杉村探偵事務所を必要とし、頼ってくる。だから事件の背後にある闇は、いくらにこやかな表情を見せる宮部作品とは言え、深く暗く刺々しい。日常とのギャップが大きいからこそ、それぞれの事件の深さが井戸の底みたいに小説世界を響き渡るのだと思う。一言でいうなら、どの部分も面白くてページを繰る手が止まらないのである。

 平和で軽妙な市井の人々との微笑ましいやり取りと、どす黒いエゴの生み出す心の泥沼とが、そこかしこで入れ替わる。杉村探偵事務所の依頼料はとても低価格なので、依頼される発端はとても些細なことなのだが、われらが愚直な私立探偵・杉村君は丁寧で誠実な調査を通じて、より深い事件の存在を掘り当ててしまう。そういう能力の持ち主なのだ。だからどこか名探偵であることに間違いはない。人は見た目ではない。

 敵を作らない人の好さ。誰にでも好かれるタイプの無色透明なキャラクター。離婚で失ってしまった元妻に育てられているただ一人の娘にはとても愛情を寄せてやまない普通のパパ。社会に刻まれる深い皺のさらに奥深く、より暗く濃い影の部分にまで自然と踏み込んでしまえるキャラクター。警戒をされぬ存在でありながら、空くなからずより個性的な協力者たちの援助を得ることのできる環境。

 それぞれの事件以上に、事件と事件を結ぶものとして、杉村三郎と、また彼の住む世界の造形を丹念に造形してきたからこそ、小説世界に深みが与えられ、人間たちが何の違和感もなく、それぞれオートマティックに動き出しているように見える。積み重ねられたシリーズ作品ゆえの魅力であり推進力である。

 本書収録の三作品の発表時期は、東日本大震災の6、7年後の二年間である。本書は繰り返すが、震災後一年間の物語。震災後8年を迎えるこの時期にまだあの大災害に楔を置いて、杉村三郎は生きている。

 感慨深い一冊である。

(2019.3.10)
最終更新:2019年03月10日 16:14