真実の10メートル手前




題名:真実の10メートル手前
著者:米澤穂信
発行:東京創元社 2015.12.25 初版
価格:\1,400-



 『王とサーカス』を東京創元社の分厚いB4ゲラ稿で苦労して読んだ時が、女性記者・太刀洗万智との出会いであった。正直、個性を感じさせられることはなかった。むしろカトマンズで起こった政変という国家的危機のなかでの緊張感と、記者という職業のレゾンデートルに悩むヒロインの姿が縦横の糸として紡がれた作品であった。

 本書は、様々な事件を通じて太刀洗万智という記者が持つ能力・魅力・個性が浮き彫りになってゆく短編集である。記者といえども、この女性記者は、どこか旧い探偵の趣を持つように感じられる。何を考えているかわからない寡黙なミステリアスさ、常人とは異なる見方で物事の真相を暴いてゆくクールな思考、などが各所に散見されるからだろう。

 作者は、本書で「あとがき」を書いている。今はほとんど見られない、作者による「あとがき」は、実は制作秘話として大変有難い。とりわけ米澤穂信の初心者読者にとってはこうした裏話は、読書の一つの舵取りとなる。

 出版順序が実は『王とサーカス』とは逆になってしまった、ということが「あとがき」からわかる。本短編集では、常に他者の視点から描かれることで、太刀洗万智とおい人がミステリアスで個性豊かな存在として浮き出てくる。作者は、常に客観性を持たせたこのような描写で太刀洗万智を描いてゆこうか否かを、迷ったという。しかし作者は、彼女に一人称の作品を用意することになる。それが本署に続くはずであった『王とサーカス』だったのだ。

 なので順番は逆になってしまったが、本書で作品毎に切り替えられる、様々なワトソン君たちの口から語られる太刀洗万智とは、より謎めいて天才性を持ったタレントとして描かれる、和製シャーロック・ホームズなのである。

 そして事件はいずれも奇をてらったものではなく、人間を描く小さな日常的なものばかりだ。一見猟奇犯罪に見えるもの、社会を賑わせたサイコ殺人に類似したものなども用意されるものの、米澤穂信の切り口は、誰の周りにも起こり得る人間の優しさ、愛、ちょっとした憤りなどによる起こり得るリアリティを備えたものばかりである。

 それらを取材という武器によって切り取る太刀洗万智は、時にせっかくの努力のたまものの取材ネタを、仕事の成果だからと割り切るのみならず、人としてどう仕立てようかを判断する。事件を解決に導くだけではなく、それをどう公表してゆくのか、表現するのか、はたまた忘れ去られることを選択すべきなのか。その辺りも見どころ、読みどころとなっている辺りがまた憎い。

 独特で緻密な文章で編まれた米澤世界、今後も継続して堪能させて頂きたい。

(2016.8.13)
最終更新:2016年08月15日 11:21