真夏の島に咲く花は



題名:真夏の島に咲く花は
作者:垣根涼介
発行:講談社 2006.10.10 初版
価格:\1,700

 『ゆりかごで眠れ』に続き、今年二作目の長編となる本書。この二作品の温度差にまず驚いてしまった。同じ作者のものだとは到底思えないほど、異なる二冊。かたや血の抗争を繰り広げるコロンビア・マフィアの血と死闘の生涯。かたや南国フィジーに起こった無血革命の影響下、不安定な状況下で揺れ動く男たち女たちの恋のやりとりをトレンディー・ドラマのように生ぬるく掻き回したようなこの作品。

 この作家がクライム・ノベルの書き手だなどという頭がこちら側に最初からなかったら、本書はもしかしたらそう悪くない作品であるのかもしれない。しかし生憎私は垣根涼介という作家をクライム・ノベルの書き手として高く評価しているので、本書は悪くないどころか、あまりにもなまぬるく、退屈極まりない作品だった。女々しさでいっぱいの、こんな小説、何がリゾート地だ、島の反対側の異変だ、などと投げ出したくなるくらいだった。

 もちろんこの作家が、クライム小説への愛着心に縛れているなどとは思わない。そういうことは他の作品からも十二分に伝わってくる。むしろ国際化したような顔をしてぬくぬくと日常的ぬるま湯に浸っているニッポン1億聡脳天気な小市民主義に対し、第三世界のカルチャー・ショックを垣根作品という形で手榴弾のように投擲する過激な作家であるということも私はよくわかっている。

 本書のテーマだって、異文化交流みたいなところに置かれているのだろうし、そのことがわからないわけでは決してない。特にフィジーの人々の描写は強烈である。巨大な肉体を怠惰な時間の浪費に使用するだけで、細かい悩みも金銭への欲望もなく、豊富な天然資源ゆえ飢えに苦しむことがなく、そも働く必要性も意欲も実に希薄であるというフィジー人についてこの作家が執拗に描写すればするほど、ニッポンや欧米の生活、政治、倫理の圧しつけがましい価値が無意味なものに思えてくるのは確かだ。こんな天国のような場所とニッポンの目指す経済大国主義が絡み合うはずがないという地球規模での理不尽がここに書かれているのだということも理解できないではないのだ。

 こんなフィジー人たちに最も似つかわしくないのが「革命」という言葉なのかもしれない。現にここで使われる「革命」の正体は、島内で徐々に増えつつあるインド人人口と働き者であるインド人が、フィジー人の怠惰な楽園をじわじわとその経済力で侵食し、やがては全て乗っ取られてしまうことへのの不安そのものでしかないのだ。主義や論理はどこにもなく、ただ働く者が入国してきたために働かざるフィジー人たちが政治だけは自分たちが司ると息巻いているだけの革命なのだ。

 この本を読み終えてしばらく経った2006年11月に、新たな政治革命がフィジーを襲ったそうである。首相官邸は軍隊に取り囲まれ、やっぱり無血革命で政権が交代したところを見ると、本書に書かれていた革命と大差はないのかなと感じる。またインド人フィジー人のバランスを取るだけの、言葉だけ「革命」だったのかなと。

 どんな革命であろうと背後には必ず大国という傀儡師がいる。木偶人形たちは自分からは勝手に動き始めやしない。木偶には木偶の幸福があるのだ。彼らががんじがらめに結ばれた糸によって無理矢理立ち上がらされ、動くことを余儀なくされて言葉だけ「革命」を起こした。そんな風土が、多分、フィジーだ。

 さて本書は、2000年クーデターの渦中、フィジー人、インド人、ニッポン人と三つの国の四人の男女が入り乱れ、恋と経済のちまちましたあれこれを、延々一冊に渡って繰り広げる、私にとっては退屈なだけだった小説である。こじつけたようなタイトル。あるいはタイトルに合わせたかのような無理矢理なラストシーンなどなど。大アマの御伽噺でも読まされているかのような騙され感が最後まで私の印象としては強かった。私はクライムの書き手してしか、この作家を見ていないから、垣根涼介という人を白紙で見た場合、この作品が果たして一般の読者の目にどう映るのかは到底わかり得ない。だけど、だけどだ、やっぱり私がつまらないと感じた冗長さは、やっぱりそのままつまらないんじゃなかろうか。

 それから、最後になるが、本書はなんとネット・ノベルだったのだそうだ。講談社のサイトにそうしたネット小説のコーナーがあって(興味がないので深追いはしていません、きっぱり!)、そんなところでだらだらと大衆のネットお宅たちに向けて書かれた小説なのだろう、きっと。そうでないのかもしれないが、私の目にはこの作品間温度差は、そんな風に映る。

 その昔、niftyがまだパソコン通信であった頃、梁石日がネット小説として『断層海流』を書いたのだった。言っておくが、こちらは甘さの欠けらも見られないハード&タフな梁石日そのものだった。今思うに、パソコン通信は情報の垂れ流し時代と違って、ずっとずっと濃密重厚な評価に曝された妥協なき世界だったのだよ、きっと。

(2006/12/17)