ゆりかごで眠れ



題名:ゆりかごで眠れ
作者:垣根涼介
発行:中央公論新社 2006.04.10 初版
価格:\1,800

 垣根涼介の作品には、いつもロマンがある。切羽詰った逆境に目を凝らすとき、特に南米奥地、文化の往来の見込めない場所で、人間の逞しさを描いているときの彼のペンは、生き生きと跳ねて見える。

 知略を凝らした犯罪の奥底にもまた、紳士的ルールがある。対して仁義を持たぬ者たちとの間で葛藤が渦巻き、そこには常に名誉の問題、人間としての矜持の問題が、高く大きくそそり立つ。

 そうした意味で欧米の冒険小説が持つエッセンス、生き様、誇り、気位、沽券といった意識を強く持った物語の、この作家は数少ない書き手であると言っていいのかもしれない。

 騎士道精神のアンチテーゼが常に世界に存在することを、彼の物語力学は決して忘れない。騎士道精神に端を発する西部劇では、大抵は問題には、クライマックスの決闘で片をつけて終わる。ウエスタンで起こるトラブルは、常にそうした二つの極の対峙構造生み出す軋轢の中で展開される。次第に溜まった内圧が爆発してゆく構造として世界がそこにあり、登場する人々は否応なくそこでぎりぎりの選択を迫られてゆく。

 本書も、構造と食材は、良くも悪くもまさにその範疇を出ることがない。中でも、作者の筆が生き生きするのは、南米での過酷な生い立ちに関わる場面、そして最後には日本を舞台にしては考えにくいほどに圧倒的な火力満載の活劇シーンである。

 この作者の作品世界に満ちた空気についてはいつも思うのだが、どんなに残酷な過去を持とうと、人間たちは暗くならず、むしろ乾いていることだ。どちらかと言えば、頭ではなく行動で解決しようという潔さが見られ、読書としてはかなり心地よいカタルシスを得ることができる世界なのである。

 そこを狙って書いているというよりは、世界の辺境を旅して歩いた作者の、おそらく自然な気風なんだと思われる。旅は人を変える、などというけれども、旅こそ物語の具材であり、よい食材を集めた人ほど、豊かで振幅の大きな想像力を駆使し得るのかもしれない。

 本書ではついにというか、この作者であれば自然な流れというべきなのだろうが、日系人のコロンビア・マフィアを主人公に据えた。いわゆるスカーフェイスみたいな、ビルディングス・ピカレスクの王道なのである。そしてスカーフェイスの持つ愚かさとは別の意味での、むしろプラスの愚かさに縛られた主人公は、まるで義賊・現代のねずみ小僧といったオプティミズムだ。

 「愛は十倍に、憎悪は百倍にして返せ」とは、作中何度も出てくる言葉だが、ぼくは憎しみを百倍千倍にするよりもずっと、愛を十倍にすることの方が難しいことだと思う。だからこそ、本書のような途方もない無駄な冒険に命を賭けようとする物語が、例え寓話みたいだと揶揄されようとも、きっとささやかな価値はあるのだ。

 ただ、おそらくは作者がこの傾向でここまで書き続けていることから、読者としても次世界のことを案じたくもなる。馳星周が必死に初期作品の焼き直し的作風から脱しようとして、半ば成功しかけている(?)のに比して、この作者は、まだ『ワイルド・ソウル』や『ヒート・アイランド』から一歩も抜け出ていない。ちょうど一年前の今頃読んでいた『君たちに明日はない』こそが、実はそこそこに新鮮で山本周五郎賞まで獲ってしまったのだが、その印象は、こちらの作風を超えるにはまだ遠い気がする。

 本書は読み始めたら止まらない面白さを持っている。この作者特有のカタルシスも感じさせてくれる。楽しく、かつ満足の行く読書的時間がここにある。それにも関わらず、『ワイルド・ソウル』を超えることができないのは何故だろう。きっとあの作品は、あのときの衝撃であり、この作品は予想されたそのものだったからだろう。

 たとえば船戸与一のように、扱う風土を変え、ストーリーや語り口にに若干の工夫を凝らすのも一つの手だろう。思い切って別ジャンルに挑戦するのも(『君たちに明日はない』みたいに)あるいは一つの道だろう。荒々しい作風、その中に独自な才気を迸らせているが故に、この手の作品を焼き増ししてゆくだけでは、到底持たないだろうと思われる作家。

 そうした状況こそが、垣根涼介が自らに課した宿命なのかもしれない。そして、次々と期待される世界の望みに応えて、さらにタフな作品を出し続けてゆく意思こそが、作家にとっての「愛は十倍に」っていうことじゃないだろうか。

(2006/05/07)
最終更新:2006年12月17日 22:22